エドワード1世のウェールズ侵攻初期の1277年に、前線基地としてディー川の河口からやや入った沿岸に築かれた城。 マスター・ジェイムズが手がけ、ルズラン城?とともにアイアンリングの最初の一つとしてあげられる。 戦線が西に移動するにしたがって補給拠点として使われるようになった。 ルズラン城と同じく補給に便利な川沿いに作られ、船で直接物資を搬入できた。ただし現在は砂の堆積によって干潟と化している。 戦線の移動で城塞の重要性が薄れたため工事のスピードが落ち、より前線に近いルズラン城よりも遅い1284年になって完成した。
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補給拠点として使われていた時代は城の前面に堀で防御された商人たちの町が出来ていた。 1294年のマドッグの反乱の際、占拠されるのを避けるために城には火が放たれた。反乱が鎮圧された後に補修される。 1399年、リチャード2世はアイルランド遠征からイングランドに戻る途中、ここフリント城でヘンリー・ボリングブルック(のちのヘンリー4世。ボリングブルックは彼が生まれたボリングブルック城から取られた名前)に捕らわれロンドン塔へと送られた。 この事件はのちにシェイクスピアの戯曲『リチャード2世』の中で描かれる。 17世紀イングランド内戦では王党派が占拠・籠城し議会派との間で戦端が開かれた。3ヶ月後降伏開城し、城は再利用できないよう破却された。
現在では方形の主郭の四隅の円塔と濠の跡、外郭の城壁が一部だけ残っている。 この城の特色は主郭の南角の塔で、一角の塔であると同時にキープの代用としても設計されていた。他の三隅の塔と比べて大きく、城壁からも独立して建っている。主郭と外郭の両方の防御、更に主郭への出入り口の跳ね橋の守備も兼ねられるように計画されていた。 その主郭の外側に外郭があり、主郭との間は川から引き入れた水濠と跳ね橋で隔てられていた。更に外城壁の外側にも堀を備えた。
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