ルネサンス期イタリア最大の傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァが築いた、ヨーロッパでも最大級の規模を誇る城塞。 ミラノでは1277年に大司教となったオットーネ・ヴィスコンティがトレ家を倒し、以後ミラノのシニョーレ(僭主)の地位を世襲し、他の多くのロンバルディア諸都市のシニョーレを兼任して支配領域を急速に拡大した。 1354年にはその支配領域が家族内で分割され、それぞれの領域での拡大が続いたが、そのなかでミラノでは1368年にヴィスコンティ家の居城が築かれ、これがカステッロ・スフォルツェスコの原型となる。 1384年、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティはヴィスコンティの支配領域を再統一し、1395年には公位を獲得しミラノ公国が成立した。 ジャン・ガレアッツォの死後ミラノ公国の政治的統一は崩れ、後を継いだジョヴァンニ・マリーアは1412年に暗殺、その弟フィリッポ・マリーアには男子がいなかったが、庶出の一人娘が結婚していたのが傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァだった。
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1447年のフィリッポ・マリーアの死により、ミラノでは共和制が復活して守護聖人アンブロシウスに由来するアンブロージオ共和国が成立したが、外部勢力に対抗する力を持っていなかったため、1450年にフランチェスコ・スフォルツァが武力でミラノを占領し、義父フィリッポ・マリーアのミラノ公位を継承した。 フランチェスコ・スフォルツァは1454年のローディの和でミラノ公位を国際的に承認され、以後ミラノ公国はイタリア五大国として北イタリアに大勢力を有することになる。 フランチェスコ・スフォルツァはアンブロージオ共和国によって破壊されたヴィスコンティ家の居城を1451年から1466年にかけて再建・拡大し、これがカステッロ・スフォルツェスコのほぼ現形となる。 城郭の設計は建築家ジョヴァンニ・ダ・ミラノが、城塔の設計はアントニオ・フィラレーテが担当し、特にフィラレーテはミラノにルネサンス建築を最初に導入したことで知られる。 スフォルツァ家のもとでミラノではルネサンス文化が保護され、特にルドヴィーコ・スフォルツァ、通称イル・モーロはレオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテをミラノに招き、彼らもまたカステッロ・スフォルツェスコの建設に関わったことで、カステッロ・スフォルツェスコはルネサンス文化の代表的な建築物となった。 このルドヴィーコ・スフォルツァの時代に城はほぼ完成し、外観は城としての威厳を保つ目的からかゴシック様式で、内部にはルネサンス様式が用いられ宮殿としての側面も大きかった。
芸術を振興したルドヴィーコ・スフォルツァだが、その一方で政治家としての評判は悪く、外交政策を転換してヴェネツィア共和国などと結んでフィレンツェ共和国やナポリ王国に対抗し、フランス王シャルル8世のナポリ王国侵攻を手引きしたが、フランス王ルイ12世によりミラノから追放されることになった。 シャルル8世のイタリア侵攻に始まるイタリア戦争でカステッロ・スフォルツェスコは損傷し、1535年にはスフォルツァ家が断絶し城は要塞・兵舎として用いられるようになった。 この16~17世紀にカステッロ・スフォルツェスコは星形要塞として改修されるなど、その規模は拡大していきヨーロッパ最大級の城塞となったが、1800年にナポレオンによって破壊された。 カステッロ・スフォルツェスコの文化財としての価値が見直されたのは19世紀末になってからで、1891年から1905年にかけてルカ・ベルトラミによって復元が行われた。 その後第二次世界大戦では爆撃によって激しく損傷したため、戦後になって復元されたのが現在のカステッロ・スフォルツェスコの姿となる。 2010年には日本城郭協会によって「スフォルツァ城」としてヨーロッパ100名城に選定された。
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