イングランド・ウェールズの国境地帯に、ウェールズ勢によって12世紀から13世紀にかけて築城された城。 チェスターへの街道を掌握できる位置にあり、たびたびイングランドウェールズ両勢力の攻防戦の舞台となった。 1157年にウェールズ軍が10倍とも言われるイングランド軍を打ち破ったエウロイの戦いが起きるなど、この近辺は両勢力にとって最前線であった。 13世紀後半にはイングランド側が対抗して至近距離にハワーデン城を築城したことからも、この地域の争いの激しさが伺える。
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そのエウロイの戦いのときすでに城砦の存在が記録されており、おそらく当時のグウィネズ王オワインによって築かれたと思われる。 1257年にオワインの玄孫にあたる末代公スラウェリン・アプ・グリフィズによる改修が行われ、現在見られる最終的な形になった。 1277年からエドワード1世のウェールズ侵攻が始まると最前線の城として真っ先に攻撃をうけ陥落。 エドワード1世はよりウェールズ側にルズラン城?などの城を築いたために重要性がなくなり、エウロー城は放棄された。 その後ウェールズ勢力の反乱の際に補修され用いられたとも言うが、基本的には打ち捨てられた廃墟のままだった。 現在も廃墟のままであるが、一帯は公園に指定されていてその遺構はよく保持されている。 ただし公園の駐車場から見ると最奥にありかなり歩く。逆側からなら距離は数分の1で済むが交通アクセスはない。
丘の中腹にあるヒルサイド型の城で、城より高い南側を中心に深めの堀で防御を固めている。塔も南側にだけある。北側は谷。 城本体は北を上にした潰れて歪んだ三角形の城地を持ち、東側の角を中心とする一段高い位置に主郭、その下に外郭がある。 それぞれの郭を城壁で囲み、モットアンドベイリー的な要素を持つ囲郭式城郭だった。 主郭中央部に屋上に胸壁を備えアルファベットのDの形をした主城塔があり、外郭の西側角にも円形の防御塔を持っていた。 このD字形キープはウェールズ人が築いた城に見られる形式で、築城者がイングランド系かウェールズ系かの目印とされている。 また城門塔はなく、城門は単純に城壁につくられていたなど、イングランドが作った城とは違う特徴を備えていた。
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