大宰府鴻臚館 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報難波鴻臚館、平安京鴻臚館とならぶ外国使節団への迎賓施設として機能した。天武天皇2年(673年)に「筑紫大郡」、持統天皇3年(689年)には「筑紫小郡」、その中間にあたる持統天皇2年(688年)には「筑紫館」という名称が登場する。 名称変遷の末、平安時代初期に鴻臚館(こうろかん)と名を改めた。もともとは使節団が入京か放還かが決定するまでの滞在所として築造され機能した施設であり、対敵用の防衛設備などはほとんどなく、簡単な濠と石垣のみが存在する。 使節団はその扱いが決定するまで当施設内にてかなりの期間にわたり監視・管理されていたという。はるばる海外から渡来してもすぐ会えるわけではない。当然ではあるが、そのまま野に放置しておくわけにもいかない。 判断が下されるまでに時間を要すため、それに対応する施設が必要となった、という尤もな考えのもと鴻臚館がその機能を果たした。 難波鴻臚館、平安京鴻臚館とならぶ外国使節団への迎賓施設、また遣唐使や遣新羅使の送迎施設として機能した。吉備真備や鑑真もこの施設に立ち寄っている。 難波鴻臚館はその文献のみ、平安京鴻臚館はそのおおよその規模と西本願寺付近にあることまでは分かっているが、遺構調査のために神社仏閣を破壊する必要があるため調査は実質不可能とされている。 その3つのうち唯一遺構が確認できたのは大宰府鴻臚館のみであり、鴻臚館の中でももっとも大きな規模を誇っていた。 天武天皇2年(673年)に「筑紫大郡」、持統天皇3年(689年)には「筑紫小郡」、その中間にあたる持統天皇2年(688年)には「筑紫館(ちくしのむろつみ)」という名称が登場する。 名称変遷の末、平安時代初期に唐の外交施設「鴻臚寺」に肖り鴻臚館(こうろかん)と名を改めた。 (続きをクリックで表示) 当施設は白村江の戦い以降の防衛施設として、簡易な造りのもと、博多湾に突き出した丘陵上に築かれたのが始まりである。尾根を造成し、天然の谷をそのまま堀として利用していた。 その後海外の商人や外交使節団を持て成す方へと向きが変わったため、それに準じた造りへと徐々に変化してゆく。飛鳥時代の当施設は穴を掘り、そこにそのまま支柱を立てる簡易な築造と簡単な石垣の施設であった。 その後、奈良時代は前期になってくると施設は大きく拡張され北館と南館に立派な建物が設けられ、二つの間に土橋が架けられた。塀や石垣の増強などもこの頃盛んにおこなわれる。 当施設において礎石の上に柱を立てる工法が登場するのは、奈良時代後期からである。堀立柱は土に直接木柱を刺し込むためすぐに朽ちてゆくが、礎石の上に立てることで木材の腐食を防いだ。 鴻臚館は7世紀後半から11世紀前半の約400年間、外交の窓口として重要な役割を果たしたが、永承2年(1047年)の放火事件を最後に再建されることはなく、記述からも忽然と姿を消した。 放火の詳細については平安時代の歴史書『扶桑略記』に「大宰府、大宋国商客宿房に放火せる犯人四人を捕らえ進む。宣旨によりて禁獄す。」とある。 発掘調査によって11世紀半ばごろの焼土層が鴻臚館にて確認されており、この記事と時期がほぼ一致した。 弘安の役以降、鎮西探題が博多の地に置かれたため軍事・貿易・政治ともに大宰府は機能を失い、それに呼応して鴻臚館も迎賓館としての役目を奪われたのだった。
客館から防衛拠点へ施設機能の変化(クリックで表示) 客館から防衛拠点へ施設機能の変化戦後の発掘調査により、銅貨やイスラム圏の青釉陶器、ペルシアガラス、窯青磁、越州系の香炉など海外製品が多く出土している。さらには北館・南館跡よりトイレの遺構も発見された。特徴として男女別、またさらには日本人と外国人とも用を足す場所が違う。 戦後の発掘調査により、銅貨やイスラム圏の青釉陶器、ペルシアガラス、窯青磁、越州系の香炉など海外製品が多く出土している。さらには北館・南館跡よりトイレの遺構も発見された。特徴は男女別、さらには日本人と外国人とも用を足す場所が違う。 これは肉食文化を持つ外国人とそうでない日本人を分けたのであろうと考えられている。と同時に古来のトイレットペーパーである籌木(ちゅうぎ)、つまりは排泄物をこそぎ取るための木ベラも確認されている。 出土品の中には少々面白いものも見つかった。寄生虫の卵とウリ科の種である。古代よりウリの種は虫下しに効果があるとされ好んで食されていた。ウリの種が大量に見つかったことで、当時より健康への関心とその管理意識・対策の存在が判明したのだ。 防衛施設化へ、その理由においては『日本三代実録』にもある新羅海賊の襲撃事件がきっかけとなる。 大宰府鴻臚館は時代によってその性質が大きく変わる施設である。白村江の戦い後、当初は簡単な防衛施設として築造され、その後は迎賓館として、そして最後はまた防衛の拠点となった。 迎賓館のころは、外国の使節団が入京か放還かが決定するまでの滞在所であると同時に、人の出入りの多い海岸警備の役割も果たしていたと考えられる。 ただ、戦一つを乗り切れるほどの武器・防備の用意はなく、湾岸警備を果たせるだけの備えであったとされる。徹底した防衛施設化へ、その理由においては『日本三代実録』にもある新羅海賊の襲撃事件がきっかけとなる。 「太宰府曰く、去る月二十二日夜、新羅海賊、艦二艘に乗り、博多津に来たりて豊前国年貢の絹綿を掠奪して、即時、逃鼠す。兵を発し追うも、ついに賊を獲ず、と。」 とあり、貞観11年(869年)新羅海賊による貢綿船襲撃のうえ絹綿の掠奪を受けたにもかからわず、結局は捉えられなかったこと記した。 坂上大宿禰瀧守の卒伝によれば、瀧守はこの事件を受けすぐさま太宰府権少弐に任命され、鴻臚館の防備充実を図るため、武具のほか兵力としては夷俘(いふ)の調発を申請し博多警固所の警備とした。 ただ、その後寛平5年(893年)肥後国の松浦郡と飽田郡に再び同海賊が現れ、翌年には対馬島で同じように襲撃にあったと『日本紀略』に記述が残る。 コメント |
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