馬木城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報馬木城(まきじょう)は大馬木側上流部にそびえる標高937mの矢筈山に築かれた山城で、尼子十旗の一つである。馬来城や夕景城などとも書かれる。 馬木城(まきじょう)は大馬木側上流部にそびえる標高937メートルの矢筈山に築かれた山城で、尼子十旗の一つである。馬来城や夕景城などとも書かれる。 東西2つの峰それぞれに比較的規模の大きな郭が配され、それを守るように小規模な曲輪が配置されている。 室町初期、出雲守護山名満幸の弟氏綱が一帯を与えられ馬木城を築城したとされているが、氏綱は明徳の乱で討ち死にしたとも、その後出雲守護になった京極氏に従ったなど説があり不明瞭な点が多い。 馬木城を拠点とした馬来氏はこの氏綱の子孫であるとされ、北の三沢氏と密接に連携しつつ当地を治めていた。 続きをクリックで表示 15世紀末出雲守護京極氏が没落し、尼子氏がそれにとってかわり、それと対立した三沢氏も最終的に尼子氏に降ると、三沢氏と歩調をあわせていた馬来氏も尼子氏に従ったとされる。 その後、永禄3年から5年(1560~1562年)にかけて備後・石見方面から毛利氏の圧力が強まると、北の三沢氏が毛利氏に降伏し毛利方の高野山久意(山内隆通父)らとともに馬木城へ攻め寄せてきたという。 その後、永禄3〜5年(1560~1562年)にかけて備後・石見方面から毛利氏の圧力が強まると、北の三沢氏が毛利氏に降伏し毛利方の高野山久意(山内隆通父)らとともに馬木城へ攻め寄せてきたという。 馬木氏当主孝綱が不在であったこともあり、城兵の奮闘むなしく馬木城は落城、他の馬木氏の城郭も次々に落とされていったという。 尼子氏が毛利氏に降ると馬木氏も毛利氏に降り、その後も当地を治めたようであるが、馬木城のその後についてははっきりしない。 馬木氏は三沢氏が所領を長門に移された際に三沢氏とともに安芸に移り、その後も毛利氏に仕え長州藩士として続いている。 馬木城跡、特に主郭部分はほとんど整備もされていない山林となっているが、それでも郭の平地部分などは確認でき、西側の峰には石垣も残っている。
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