花倉城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報花倉城は、烏帽子形山(標高392m)の支峰・城山(標高297m)の頂上部に築かれた室町時代初期の山城である。この山城は14世紀後半・今川範氏が駿河支配のため葉梨荘内に入り、居館の詰の城として築城したものとされる。16世紀前半には今川義元と兄・花倉遍照光寺住持 玄広恵探との間で起きた家督争い(花倉の乱)の舞台ともなった。 花倉城は、烏帽子形山(標高392m)の支峰・城山(標高297m)の頂上部に築かれた山城で、中心部には平坦な2つの曲輪(本曲輪・二の曲輪)が連なり2つの曲輪の間と、曲輪の南側には長さ約40mの大規模な堀切がもうけられている。城の中心部から3方向に伸びる尾根筋にも、敵の移動・侵入を遮断するための堀切がつくられている。武田氏・徳川氏に先行する今川時代の素朴な築城形態を留めているとみられ、静岡県中部を代表する戦国期の山城である。 今川範氏が14世紀後半・駿河支配のため葉梨荘内に入り、居館の詰城として築城したものが始まりとされる。この城が歴史の舞台に登場するのは、戦国時代、天文5年(1536)6月の花倉の乱の時である。今川家最大の家督争いで、前当主で長男・今川氏輝と次男・彦五郎が同日に死去し、前当主氏輝に実子がいなかったため次期当主の座をめぐって四男・今川義元と三男・花倉遍照光寺住持 玄広恵探(今川良真)が駿河国各地で武力衝突し、勝利した今川義元が今川家の家督を継いだ。乱の最終局面で、義元方の岡部親綱らが玄広恵探の立て籠もる花倉城を攻め、玄広恵探は支えきれずに山伝いに逃亡して普門庵(藤枝市本郷)にて自害した。戦いで活躍した岡部親綱宛に義元が出した書状には「葉梨城」と書かれており、これが現在の花倉城に該当するとみられている。
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