神楽尾城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報神楽尾城は、津山盆地の中央に位置する神楽尾山の山頂に築かれた山城である。
続きをクリックで表示 名前の由来(クリックで表示) 後の森家津山藩が編纂した「作陽誌」(西作誌)によると、神楽尾の名の起源は過去に山頂にあった天剣神社の伝説に由来するという。 また、本城の東には古くは平家城という城があり、承平年間に宇都宮教貞が在城したことが同書に記載されている。 歴史(クリックで表示) もともと、本城の東には古くは平家城という城があり、承平年間に宇都宮教貞が在城したことが作陽誌に記載されている。 神楽尾の名は太平記の35巻に初めて登場する。 当時は南北朝時代で、北朝(幕府)側で足利尊氏の死去、仁木義長の失脚、畠山国清の無断帰還などの混乱が起きていた頃である。 南朝側の武将山名時氏は、関東から幕府に呼ばれてきていた軍勢がすでに南朝軍を征伐し終わり都に戻ったと聞き、次は自分が攻められる番だろうと防戦の用意をしていた。 しかし、幕府側で上記のような混乱があり、さらには失脚した義長が南朝に寝返り再侵攻を始めたと聴き、その機に乗じて三千余騎を率いて因幡・美作へ勢力を分散配置した。 神楽尾城もその兵が分散された中に含まれていた。 その後、北朝側の赤松世貞、赤松則祐らが他の城とあわせて攻めたところ、まともに戦おうともせず、寝返って味方を攻撃したり、逃げ落ちて行方知らずになったともいう。 (神楽尾城の兵がどう振舞ったかは分からないが) 作陽誌によれば、その後も神楽尾城は山名氏と赤松氏の間を行き来し、定まった主がいない状態が続いたという。 その後に大きく状態が変わるのは天文年間に入ってからである。 後に毛利氏と宇喜多氏が手を組み天正5年に浦上氏を滅ぼすと、織田氏による中国征伐が始まり、羽柴秀吉の圧力が加わり始めた。 城郭構造(クリックで表示) 神楽尾城は大きくは三つの曲輪から構成された大規模な山城である。 現在残る姿は主に大蔵甚兵衛尉と千場三郎左衛門の時代に構築されたものという。 山頂に本丸があり、東の尾根に二の丸、南の尾根に三の丸が位置する。 二の丸が少し離れて場所に位置し、他の郭との間を泥田堀、土橋、空堀などで仕切られている。 長さが200mほどあり、高い土塁が構築されている。 三の丸と本丸との間には武者溜と馬場がある。 三の丸は放射状の竪堀により防御を固めている。 本丸は東西約40m、南北約45m程の規模で、北と西の側面は切岸で断崖絶壁となっている。 勾配の緩い南西と南側には帯曲輪、腰曲輪を幾重にも築き防御を固めている。 そして本丸内の一段高い場所には、名の由来となった天剣神社が鎮座していたという。 (津山瓦版より) 神楽尾城にまつわる文献へのリンク 神楽尾城にまつわる文献へのリンク(クリックで表示) 作陽誌:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183736 太平記 35巻:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/878055/7?tocOpened=1 津山市史 第2巻(中世):http://www.tsu-haku.jp/untitled54.html 津山瓦版:http://www.e-tsuyama.com/kankou/check/kaguraojyoseki/
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