十狐城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報鎌倉時代から比内地方を支配した比内浅利氏の居城。浅利氏は奥州合戦で源頼朝に従った浅利与一義遠を祖とする甲斐源氏の庶流にあたる名族で、甲斐八代郡浅利郷を本領とし奥州合戦後に頼朝から比内地方の地頭職を与えられた。 続きをクリックで表示 天文19年(1550年)、則頼は十狐城で死去し子の則祐が跡を継いだ。しかし永禄5年(1562年)、則祐は檜山城を本拠とする檜山安東氏の安東愛季と対立し、弟の勝頼が愛季に与したこともあって劣勢となり長岡城で自害した。 こうして比内浅利氏は秋田氏の家臣となり、太閤蔵入地の代官として再び比内地方を支配することとなった。しかし蔵入米と名護屋御陣用金子の未進問題に端を発して秋田氏との間で紛争が起こり、慶長2年(1597年)の大坂で裁定が行われるまでに発展した。 こうして比内浅利氏は秋田氏の家臣となり、太閤蔵入地の代官として再び比内地方を支配することとなった。しかし蔵入米と名護屋御陣用金子の未進問題に端を発して秋田氏との間で紛争が起こり、慶長2年(1597年)の大坂で裁定が行われるまでに発展した。 しかし翌年、この裁定中に頼平が急死して比内浅利氏は事実上滅亡し、その後の比内地方は慶長7年(1602年)に佐竹氏が入るまで秋田氏が支配した。 十狐城は『大館旧記』によると、頼平の死後に実季が比内浅利氏の残党を平定した後に破却したとある。また『十二所町郷土読本』によると、比内浅利氏家臣の片山駿河が勝頼を殺害、頼平を毒殺し、十狐城を守っていた頼平の子・頼治を攻め十狐城が落城したという。
城郭構造(クリックで表示) 城郭構造十狐城は大館盆地東南部に位置する独鈷集落の東側、だんぶり長者伝説が伝わる独鈷大日神社が鎮座する台地の北西側に築かれた。神社から続く道は十狐城の南端部に接し、台地の南側を炭谷川、北側を小河川が流れ、独鈷の西側を北流する犀川に合流している。 コメント |
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