越中高岡城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]

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加賀藩主前田利長が隠居後に築いた晩年の居城。当初利長は[[富山城]]を隠居城としたが、慶長14年(1609年)3月に富山城が焼失したため、一時魚津城に移った後、同年9月に射水郡関野に築城し地名を高岡と改めた。
越中高岡城の縄張は豊臣秀吉が築いた[[聚楽第]]の影響を受けた、いわゆる聚楽第型城郭と呼ばれるものであり、本丸を中心に北・東・南側に馬出郭を設け、これらの郭を土橋でつないで二重に重ねて防御する、極めて防御性の高い構造となっていた。
隠居城として用いられたのは短期間で、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となった。

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だが廃城後も加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持され続けた。また街道の付け替えの際には、濠塁が残る城址を街道から見透かされるのを避けるため町屋を移転して目隠しにしたり、利長の菩提を弔うために建立された瑞龍寺や利長の墓自体も高岡城の南方の防御拠点として配置されたと考えられている。

廃藩置県後は民間に払い下げられたが、現在は「高岡古城公園」として本丸に射水神社、二ノ丸に市民会館、鍛冶丸に市立博物館、明丸に動物園・三ノ丸に市民体育館などの施設がある。
平成2年(1990年)「日本さくら名所100選」に選定。平成18年(2006年)日本城郭協会により「日本100名城」に富山県内から唯一選ばれた。
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|所在地|富山県高岡市古城|
|現存状態|石垣、堀など|
|城郭構造|梯郭式平城|
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