龍王城 のバックアップソース(No.1)
正安年中(十四世紀初頭)に宇佐大宮司安心院公泰により築城された連郭式山城です。 中世には豊前国と豊後国の境にあるためこの地域での中核的な城としての機能を果たし、地頭安心院氏を中心として抱城でした(『城址説明板』)。 天文年間(1532~55)、大内義隆は大友氏に備えるため、重臣杉七郎重吉を妙見嶽城代として駐屯させ、また、龍王城には城井三郎兵衛尉を置いて、宇佐郡地頭たちを大内氏の支配下に組み入れた。弘治二年(1556)、大友義鎮は一万二千の大軍を率いて龍王城に臨んだので城将城井統房をはじめ、宇佐郡の地頭たちは皆降伏して、以後、大友氏の豊前制圧の拠点となった。このとき安心院公正は義鎮に謁し麟の一字を許されて麟生と称した。永禄年間(1558~70)には大友・毛利両軍の門司攻防戦に加わり軍功を立てた。天正六年(1578)、大友氏が日向耳川の合戦に大敗し、多くの有力家臣たちが戦死すると、大友氏の衰退を予測して離叛するものが続出した。同十年、安心院麟生も大友氏に叛旗を翻した。妙見嶽城の田原氏は宇佐郡衆の兵を募って龍王城を囲んだ。 麟生は一族郎党と共に籠城し、その天険の要害を頼んで必死に防戦したので、攻撃軍はこの城を落とすことができなかった。しかし、麟生は佐田鎮綱に後事を託して切腹、その子千代松丸は許されて居館に帰った。(『日本城郭大系』)。 近世になると、細川氏が入部し龍王城を再普請し、凖城下町に町並みも含め整備しています。その後、元和元年(1615)の一国一城令で破却され、寛永十六年(1639)に城主松平重直が高田城に移り、廃城となりました(『城址説明板』) |
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