千賀地氏城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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千賀地氏城(ちがちしじょう)は伊賀の有力国人である服部氏一族千賀地氏の居城であった平山城である。
現在の伊賀市予野地区の北に広がる丘陵から突き出た先端部に築かれた城で、西以外の三方が急斜面となっている。
千賀地氏は伊勢平氏庶流の出で多くの伊勢平氏一門とともに壇ノ浦の戦いで入水した平(服部)家長を祖と主張する服部氏の一族であり、同族の百地氏、藤林氏らとともに伊賀忍者の一族とされる。
千賀地氏城は千賀地姓から服部姓に復し、服部半蔵を名乗ったとされる服部保長の築城と伝えられているが正確なところは判然としない。
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服部保長の来歴自体も諸説あるが、主説となっているのは以下のとおりである。
千賀地氏の長であった保長は小国人が密集した伊賀での家の維持に不安を感じ、服部姓に改めた上で足利幕府にに出仕した。
だが当時は幕府の衰退が進んでいた時期であり、保長も幕府に見切りを付け、出仕時代に面識を得ていた三河の松平清康に仕え、その後家康の代に再度仕官した。
その子正成からははっきりしており、本能寺の変に際し家康の伊賀経由での脱出(伊賀越え)の手はずを整えるなど大きな功績を上げたことが知られている。
服部氏はその後正成の子正就の代に改易となったが、現在でもその名から取られたとされる半蔵門などにその歴史が伝えられている。
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千賀地氏城は築城時期、廃城時期いずれも不明であるが、主郭跡は公園として整備されており、現在でも土塁や櫓台の痕跡を見出すことができる。
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|所在地|三重県伊賀市予野字上出|
|現存状態|土塁、櫓台跡|
|城郭構造|平山城|
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