ハンプトン・コート宮殿 のバックアップの現在との差分(No.3)

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*現実の城情報 [#information]

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ハンプトン・コート宮殿はもともと、1514年に当時のヨーク大司教であり、国王から全幅の信頼を賜るトマス・ウルジ((ウルジは高位聖職者でありながら大法官に任命された。その卓越した外交手腕を買われ、政治の面でも国を事実上取り仕切っていたのだ。そのため内外に敵が多く、豪華な邸宅で多くの客を魅了したという。))が借り受けたものである。
何度も増築と改築をおこなった歴史を持つのは他の城と大差ないが、中でも広々としたテニスコートと迷路の庭園をもつことで有名であった。
ウルジは当初の一軒のみの住居に様々な施設を増設し、複数の建造物から成る壮大な司教の居城へと変貌させた。ヘンリー8世の重臣であったウルジは海外から多くの賓客を招き、外交活動を行っていた。
華やかに見えたウルジの生活もヘンリーの離婚問題が原因で失脚してしまい、挙句の果てには彼の所有地とこの宮殿が国王により没収されることとなる。
ヘンリー8世は生涯で60以上もの居城を所有したが、この宮殿は彼の治世後半のなかで最も重要な居城であった。テニスコート、狩場、庭園、大宴会用のホールや広々とした調理場は繁栄を物語る。

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ヘンリー8世の死後もその重宝は途絶えることはなかった。1547年にはエドワード6世に引き継がれる。その後、ヘンリー8世の二人の娘に渡る。その一人が「ブラッディメアリー」で有名なメアリ1世である。
メアリ1世がスペイン王フェリペ2世との子を身籠ったと勘違いした際もこの宮殿が出産の場所として採用された。メアリ1世は本当のところ、当時のイングランド情勢を懸念して[[ウィンザー城]]で、が本心だったという。
施設(コート)の広大さや周到さを理由とし、ハンプトン・コート宮殿での出産を心待ちにしたメアリ1世だが、5か月間待った甲斐なく、想像妊娠が発覚しとうとう我が子が産まれることはなかった。
今日の宮殿は一般公開されており、ロンドンのウォータールー駅からのアクセスが簡単である。毎年恒例のハンプトン・コート宮殿祭やフラワーショーも催される。なお、現在の所有者はいまだご存命のエリザベス女王2世である。

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|所在地|ハンプトンコート、グレーターロンドン、イングランド|
|現存状態|現存|
|城郭構造|宮殿|

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**城郭的特徴 [#i52c0df7]

宮殿に設けられている煙突はテューダー朝を象徴する装飾豊かな煉瓦製の煙突である。稲妻型に折れ曲がる線が模様として入っているのが目立っての特徴であった。
門の中には「アン・ブーリンの門」と呼ばれるコペルニクス天文時計が嵌め込まれた立派な門がある。テューダー守衛詰所にもなっている門で、アン・ブーリンが斬首されたその日まで門の上に入るはずだったアンの部屋の工事を続けていたという。
ヘンリー8世の庭は現在見学が可能で、1536年の姿を再現したものと言われている。また、上記にもあるがハンプトン・コート宮殿には庭園型の迷路が存在する。迷ってみるのも一興だ。
大きなゲートハウスへつながる橋には「王の獣(King's Beasts)」と呼ばれる複数体の石像が厳かに立っているが、これらはヘンリー8世と3番目の妻ジェーン・シーモアの祖先を表す。
全部で10体存在し、種類と呼称は以下のとおりである。
大きなゲートハウスへつながる橋には「王の獣(King's Beasts)」と呼ばれる複数体の石像が厳かに立っているが、これらはヘンリー8世と3番目の妻ジェーン・シーモアの祖先を表す。全部で10体存在し、種類と呼称は以下のとおりである。
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・イングランドのライオン、シーモアのライオン、モーティマーのホワイトライオン
・ロイヤルドラゴン、テューダードラゴン
・クラレンスの黒牛
・ビューフォートのエール
・リッチモンドのホワイト・グレイハウンド
・シーモアの豹
・シーモアのユニコーン

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**メアリー1世―女王の誕生― [#ecd2009e]

メアリー1世はヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンとの娘で、異母姉妹であるエリザベス(アン・ブーリンの子)とともに幼少期は大変不遇な扱いを受けていた。
1547年、メアリーが30歳をすぎたころ、異母姉弟であるエドワード6世(ジェーン・シーモアの子)が若くして即位したものの内情は悲惨であった。
王の座にあるとはいえ、先天性の梅毒を患っているエドワード6世に統治の能力も世継ぎを残す能力もない。そもそも彼の長生きも甚だ期待できない。それゆえに実権はその貧弱さに付け込む一部の貴族が好き勝手におこなっていた。
案の定、9歳で即位したエドワード6世は15歳にして短い人生に幕を下ろす。エドワード6世にとっては病だけでなく周囲の身勝手な政策にも耐えなければならない苦痛の6年間であっただろう。
1553年、少年王の死によってイングランド内政は大きく動き出す。ジェーン・グレイとメアリーのどちらが女王にふさわしいか、短期間とはいえその争いが濃密さを極めていたのだ。
ヘンリー8世の遺言に則れば即位の順はメアリー、エリザベス、ジェーン・グレイの順番となる。しかし、この順位に不服を申し立てたのがノーサンバランド公の一派である。
メアリーは信心深いカトリック派の人間で、ノーサンバランド公を筆頭とするプロテスタント派とは相容れないため、彼女が即位すれば間違いなくプロテスタント派の一派は失脚を免れない状況に陥っていた。
そこで考えたのが、あらかじめノーサンバランド公の息子とヘンリー8世の妹の孫にあたるジェーン・グレイを結婚させ、ジェーン・グレイを女王に立てる謀略が巡らされた。もちろんエドワード6世の崩御を隠しての画策だ。
また、その作戦の延長線上にはメアリーの逮捕と処刑が織り込み済みというのだから、権力争いというのはまことに恐ろしい。
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しかし、メアリーは処刑どころか捕まることさえなかった。逸早く身の危険を察知し、支援者の助けもあってすでにロンドンを離れて逃亡していたのだ。幼い時分から権力闘争を間近で見ていたメアリーは彼らの思惑など手に取るように分かっていた。
やむなくノーサンバランド公はジェーン・グレイの戴冠式を急がせ女王宣言を上げさせる。これがトドメと言わんばかりに「メアリーとエリザベスは庶子にすぎず王位継承権はない」とまで吐き捨てる。
メアリーがこのまま黙っているわけもなく、逃亡先から同じく女王宣言を上げた。それによって女王対女王の血で血を洗う戦争が始まった。虚しいことにこの戦いはわずか9日間で決着する。歴史が証明しているようにメアリーの勝利((そのためジェーン・グレイを「九日間の女王」と呼ぶ風潮もあるそうだ。))である。
遺言書の無視を除いても、王位継承権の低いジェーン・グレイがメアリーを差し置いて即位するには無理があった。また、用意できた兵力も差は歴然で、歴史はどちらが女王に相応しいかをこの時点で物語っていた。
凱旋したメアリーは当時37歳で、彼女の姿を見るや否や街は歓喜の渦に飲まれたという。戴冠式を終えたメアリー1世の初めての仕事は裏切り者の処刑であった。
企てた者はもちろん、賛同し参加した者を次々と刃にかけていったが、対立者であるジェーン・グレイの処刑は翌年まで躊躇うこととなる。彼女が何も知らされずただ言われるがままの傀儡であったのは明らかだった。
そこで温情としてカトリックへの改宗を求め、プロテスタント信仰を捨てるのであれば命を助けると約束をした。ジェーン・グレイもまた信心深いプロテスタントであった。
メアリー1世の最後の優しさはその信心深さの前では一切の効果を見せることはなく、助命の機会を与えられた若き女王候補はメアリー1世のこれを拒否し、麗しくも短い生涯を終えたのだった。
うら若きジェーン・グレイの斬首前の様子をポール・ドラローシュが息を呑むほど艶やかに、それでいて悲壮に包まれたタッチで描いている。白い布で目を覆われたジェーンの姿『レディ・ジェーン・グレイの処刑』(1833)である。
処刑はエリザベスの母アン・ブーリンと同じタワー・グリーンで執行されたという。

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**血まみれのメアリー(ブラッディメアリー) [#g3c7b92c]

戴冠式を終え、治世に腰をかけたメアリー1世がおこなった歴史上の記録としてもっとも有名な逸話に“異端教徒弾圧”((なぜ彼女がここまでプロテスタントへの弾圧にこだわるのか。それはローマ・カトリック派のスペイン皇太子であり、のちの夫となるフェリペの宗教上の身の安全をカール5世と約束したからに他ならない。また、父ヘンリー8世が自分をあんなに溺愛してくれていたのにもかかわらず、アン・ブーリンとの結婚をするために母を無実の罪で殺し、挙句の果てには自分を庶子に放り出したことへの復讐心もこの弾圧の原動力であったと考えられる。))がある。
そのさきがけとして「異端処罰法」が施行された。はじめはパジェット男爵の「国内に混乱をもたらす」との主張により一旦は阻まれたが、その後議会の承認を得て施行されることとなる。
議会は「第二廃棄法」を成立させ、「上告禁止法」「国王至上法」を含む宗教改革関連法案をことごとく撤廃した。これによりイングランドはヘンリー8世以前の体制に後退することを余儀なくさせたのだ。
1555年からプロテスタントの改革派が次々と火刑に処されてゆく。同年にフーパ―(前グロースタ主教)、10月にリドリ(前ロンドン主教)とラティマ(前ウースタ主教)が灰と化した。
そして他と比べて穏健な保守派であったガードナが11月に、翌年1556年の3月にはついにクランマが刑に処されてしまう。カンタベリー大主教となったジナルド・プールとメアリー1世は弾圧を加速させた。
異端教徒つまりはローマ・カトリック派ではない、プロテスタント派の人間は縄で捕らえ虫けらを殺すように火あぶりで処刑していった。このことから彼女は「血まみれのメアリー(ブラッディメアリー)」の異名を持つ。
有名なカクテル「ブラッディメアリー」は言うまでもなくメアリー1世の異名をもとに作られたお酒であるが、先祖が彼女によって殺害されたかもしれないにも拘わらず、それをカクテルの名前にしてしまう白人の心臓の強さには驚く。
ちなみに、殺害されたプロテスタント支持者の300人のほとんどは下層階級の者たちで、議会の中でも地位の高いものは早々に国外へ逃亡し身の安全を保ったうえでメアリー1世の治世を傍観していた。
なんとか生き延びた下層階級のプロテスタント支持者も職を奪われ、転がり落ちるように世俗の職に就き、その日その日を食つなぐ有様だったという。
メアリー1世は二度の想像妊娠をするが、これは当時のヨーロッパ情勢においては1割の女性が経験するさほど珍しくはない問題であった。というのも、世継ぎへの期待値がいまとは比べ物にならないほどに高かった時代、妊娠の心的負荷は相当なものだろう。
妊娠できなければ妻としての義務を果たせない。産まれてきた子供が女児であっても、手放しで歓迎されることはない。世継ぎは男児が好まれるからだ。二重のプレッシャーが当時の女性を襲い、あまりの負荷に妊娠と勘違いしてしまう現象が絶えなかった。
悲しくも、メアリー1世の最後はお腹にできた悪性腫瘍で、不幸にもこの腫瘍を妊娠と勘違いしてしまい、とてつもない幸福感に満たされていたようだ。これが病気であると分かった瞬間、彼女は死を覚悟し後継者の決断を迫られることとなる。
もっとも避けたいのがエリザベスであった。異母姉妹とはいえ、自分を不遇の環境に追いやった憎きアン・ブーリンの娘のエリザベスにどうしても王位を譲りたくはない。だが譲らなければテューダー家は滅んでしまう。
苦渋の選択を迫られたメアリー1世は反逆罪でロンドン塔に投獄しているエリザベスをとうとう次期女王に指名し、誰からも惜しまれることなく息を引き取った。もちろん、元夫のフェリペは彼女の葬儀にすら参加していない。

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