宇留津城 のバックアップの現在との差分(No.2)
*城情報 [#information] 築城年代は定かではないが元暦年間(1184年~1185年)に緒方三郎惟栄によって築かれたと云われる。 源義経が緒方三郎惟栄に命じて築かせたもので、賀来次郎が城主となり、賀来氏代々の居城となった。 *現実の城情報 [#information] その後、豊前に侵攻した大友氏に従ったが天正年間(1573年~1592年)には宇都宮氏(城井氏)に属した。 //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 天正14年(1586年)豊臣秀吉による九州征伐で侵攻した黒田孝高が押し寄せ、周囲を深田と沼池で囲まれた堅固な城構えに攻めあぐねたが、たまたま濠を渡った白い犬を見て弱点を知り、そこから城内へ怒涛のごとく攻め寄せ落城したという。 宇留津公民館周辺が城址で石碑と案内板がある。近年まで井戸と土塁などの遺構が残っていたらしいが、現在はまったく残っていない。 別名を塩田城(えんだじょう)と言い、築城年代は定かではないが元暦年間(1184年~1185年)に緒方三郎惟栄によって築かれたと言われる。 源義経が緒方三郎惟栄に命じて築かせたもので、賀来次郎が城主となり、賀来氏代々の居城となった。その後、豊前に侵攻した大友氏に従ったが天正年間(1573年~1592年)には宇都宮氏(城井氏)に属す。 天正14年(1586年)豊臣秀吉による九州征伐で侵攻した黒田孝高が押し寄せ、周囲を深田と沼池で囲まれた堅固な城構えに攻めあぐねたが、たまたま濠を渡った白い犬を見て弱点を知り、そこから城内へ怒涛のごとく攻め寄せ落城したという。 宇留津公民館周辺が城址で石碑と案内板がある。ここが城の中心となり、その付近には「姫井戸」「城井戸」と呼ばれる井戸があったとされるが、現在は埋め立てられその痕跡すら見当たらない。 集落の東と西に土塁があったものの、現在は取り除かれている。また、南と北の両端に城の表門と裏門が設置されていたとされるが、その影も見当たらず「カマエグチ(搆え口)」という地名として残るのみである。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 応永5年(1398年)、大友氏鑑が豊前に侵入したが、この時、大友に加担した者の中に加来三郎の名がある。 弘治2年(1556年)春、豊後の大友宗麟が豊前に侵入したが、その時、当城について『宇佐軍記』に「築城郡に討ち入り塩田の城に押寄れば、加来孫兵衛惟康冑を脱いで平伏す」とある。のちに加来氏は宇都宮氏に属した。 天正14年(1586年)10月に黒田官兵衛を軍監とした毛利三軍(毛利・吉川・小早川)総勢2万5千騎で高橋元種の小倉城攻めで、高橋氏は[[小倉城]]を放棄して香春岳城に逃亡。 そして馬ヶ岳城の長野氏は官兵衛の謀略により城を官兵衛に明け渡し、黒田軍に味方をして11月7日の宇留津城攻めをした。 宇留津城主・加来与次郎は高橋氏と同盟を結び、父・専順を人質として香春岳城に送っていた。 官兵衛の謀略を受けたが、父を取るか城を取るかの判断で、迷った挙句「父を取り」、2千人が宇留津城に立て籠もり、毛利軍2万5千騎、黒田と長野および宗像総勢2万8千余騎の大軍と対峙した。 腰まで浸かる泥沼の濠で毛利勢が攻め倦んでいた矢先、一匹の白犬が濠を歩いて渡るのを見て攻め入った。 母里太兵衛を先頭に井上九郎右衛門、栗山四郎右衛門、後藤又兵衛、野村太郎兵衛、久野四兵衛、大野小弁、吉田六郎太夫、吉田又助、林太郎右衛門などが立て続けに乗り込んだという。 ひと晩のうちに宇留津城は陥落し一千人におよぶ戦死者を出し、翌、生け捕りにされた男女子4百人を磔にし、死骸を海に流したと言われている。 犬が堀の浅瀬を渡ったため落城し、多くの死者を出したということでこの戦い以後、村では白い犬を疫病神のように忌み嫌い、白い犬を飼わないようになったと言われている。 応永5年 ( 1398年 ) 、大友氏鑑が豊前に侵入したが、 この時、大友に加担した者の中に加来三郎の名がある。 弘治2年 ( 1556年 ) 春、豊後の大友宗麟が豊前に侵入したが、 その時、当城について 『 宇佐軍記 』 に、 「 築城郡に討ち入り塩田の城に押寄れば、加来孫兵衛惟康冑を脱いで平伏す 」 とある。 のちに加来氏は宇都宮氏に属した。 }}} 天正14年 ( 1586年 ) 10月に黒田官兵衛を軍監とした、 毛利三軍 ( 毛利・吉川・小早川 ) 総勢2万5千騎で高橋元種の小倉城攻めで、 高橋氏は小倉城を放棄して香春岳城に逃亡。 そして馬ヶ岳城の長野氏は官兵衛の謀略により城を官兵衛に明け渡し、 黒田軍に味方をして、11月7日の宇留津城攻めをした。 宇留津城主・加来与次郎は高橋氏と同盟を結び、 父・専順を人質として香春岳城に送っていた。 官兵衛の謀略を受けたが、父を取るか城を取るかの判断で、 迷った挙句 「 父を取り 」 、2千人が宇留津城に立て籠もり、 毛利軍2万5千騎、黒田と長野および宗像総勢2万8千余騎の大軍と対峙した。 腰まで浸かる泥沼の濠で毛利勢が攻め倦んでいた矢先、 一匹の白犬が濠を歩いて渡るのを見て、母里太兵衛を先頭に、 井上九郎右衛門、栗山四郎右衛門、後藤又兵衛、野村太郎兵衛、 久野四兵衛、大野小弁、吉田六郎太夫、吉田又助、林太郎右衛門などが攻め入った。 ひと晩のうちに宇留津城は陥落し、一千人におよぶ戦死者を出し、 翌、生け捕りにされた男女子4百人を磔にし、 死骸を海に流したといわれている。 犬が堀の浅瀬を渡ったため落城し、多くの死者を出したということで、 この戦い以後、村では白い犬を疫病神のように忌み嫌い、 白い犬を飼わないようになったといわれている。 |BGCOLOR(#ddd):100|250|c |所在地|福岡県築上郡築上町大字宇留津(宇留津公民館)| |現存状態|| |城郭構造|平城,海城| |BGCOLOR(#ddd):100|300|c |所在地|福岡県築上郡築上町大字宇留津(宇留津公民館)| |現存状態|なし| |城郭構造|平城、海城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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