北京城 のバックアップの現在との差分(No.2)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) //編集会議室で決まった基準に基づき、本文が長くなるようなら以下の方法で折り畳んでください。(目安は大体6行以上) //本文はなるべく、ほどほどのところで改行してください。改行は「。」のうしろで。 //(本文を5行以下で入力してください。折り畳みを開始するのは、キリのいいところで結構です) 北京城は、華北平原の北東端に位置する城塞都市で、明および清の首都となった。 現在でも北京市として中華人民共和国の首都となっているが、都市開発により旧来の北京城としての遺構は大部分が失われている。 北京城は、明の永楽帝により元の[[大都城]]を継承して造営され、たび重なる増築により凸型の独特な形状の都城となった。 城の中心には景山が造られ、景山の南に接するように宮城の[[紫禁城]]が配置され、紫禁城と景山の山頂をつなぐ線に沿って大通りが設けられ、城内はそれを中心軸として東西対称に配置された。 また、城内は大きく北の内城と南の外城に分かれ、それぞれが高さ11m、幅が最大で19mの城壁で囲まれ、その城壁には各所に楼閣や甕城が設置されていた。 また、城内は大きく北の内城と南の外城に分かれ、それぞれが高さ11m、幅が最大で19mの城壁で囲まれ、その城壁には各所に楼閣や甕城((日本で言う外枡形の虎口と同様の設備))が設置されていた。 清の時代には内城と外城とで大きく社会が異なり、内城では北京八旗と呼ばれる支配階級の人々が閉鎖的な社会を営む一方で、外城では全国各地から集まってきた人々が雑多な社会を営んでいた。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 北京城は、元の首都であった大都を継承して造られている。 1368年9月12日、元から明が大都を奪取すると、大都の名前を北平と改め、モンゴル高原へ敗走した元へにらみを利かせるため、北平城として大規模な改修を進めた。 この時、荒廃した北側の区画を一部放棄し、大都の北側城壁から2.5km内側に城壁を築き、風水的な意味合いから元の宮城の大内裏を全て取り壊した。 その後、1370年に後の永楽帝である朱棣が北平に封じられると、1399年に靖難の役を起こして帝位を奪い、北平城へと遷都し、名前も北京城に改めた。 そして1406年から大規模な改修を進め、14年の歳月をかけて北京城としての最初の形を完成させた。 #br 北京城としての最初の姿は、後の内城と呼ばれる部分にあたる。 城の北側のラインは北平城と同じで大都から2.5km内側のラインに城壁を設置しつつ、その北側に残していた区画はすべて放棄した。 その一方で南側に1km程の位置に新たな城壁を築いた。 東西のラインは以前のものをそのまま継承している。 城壁は大都時代の版築の壁から焼きレンガ製の壁へと段階的に補強され、それと共に楼閣などの防衛設備も取り付けられた。 また、元の大内裏の跡地からわずかに南にずらした位置に新たな宮城である紫禁城を造営し、その造営の際に掘り起こされた土砂で城の中心に景山(万歳山)という山を造った。 #br その後、明代中期に入ると北からモンゴル騎兵がたびたび南下し、北京城の安全を脅かすようになった。 そのため、12代皇帝の嘉靖帝は北京城の四方に外羅城を築き、北京城の防衛能力を上げることを計画した。 しかしながら、財政難により南側しか造られる事は無く、それにより北京城は凸型の独特な形状を成すことになった。 この南側に築かれた外羅城が、後の外城と呼ばれる部分になった。 外城の完成により、内城、外城を貫くように、紫禁城と景山を結ぶライン上に全長8kmにも及ぶ一本の通りが設けられた。 この通りは北京城の中心軸をなし、これにより紫禁城が城全体の中心に位置することを際立たせ、帝都の設計理念を具現していた。 この中心軸を中心に東西対称に配置された平面景観は、北京城の最大の特徴の一つとなっている。 #br 明が滅んだ後に新たな統治者となった清は、北京城にはほとんど手を加えず、明の時代のものをそのまま使用した。 清時代の北京城の特徴としては、内城に北京八旗と呼ばれる支配階級の人々が暮らし、外城にあちこちから集まった雑多な民衆が暮らすことで、同じ城内でも全く異なる二つの社会が形成された点がある。 内城の暮らしは非常に閉鎖的なもので、北京八旗は多くの規律(決められた場所以外に居住禁止、城から20km以上離れてはだめ、外城に観劇に行ってはならない etc.)に従って生活していた。 これらの規律により北京八旗から活気が失われ、後の北京八旗の困窮へとつながった。 その一方で外城はこういった規制は無く、あらゆる階級、職業、人種の人が暮らす、雑然とし多様性に富んだ社会が繰り広げられていた。 #br 清が滅び中華民国が成立すると、北京城は北平と名を改められ、首都の座からは降りる事となった。 その後、中華人民共和国が成立すると改めて北京と名を改めて首都となった。 しかし、その後の都市開発により、旧来の北京城の城壁は大部分が撤去され、現在に至る。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|中華人民共和国 北京市| |現存状態|一部の城壁、正陽門、徳勝門、景山、宮城| |城郭構造|城塞都市| //題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。 //初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、必要な場合は折り畳まない状態でプレビュー表示してEdit番号を拾ってください。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){参考文献(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ 唐 暁峰(2004) 「明 ・清時代の北京城 の都市計画 と構成配置 のもつ意味」, 『東アジアの都市形態と文明史』2004-01-30, p.165-177, 国際日本文化研究センター National Geographic Society. 「消えた巨大城壁、500年におよぶ四重の守り」, https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/18/030100005/030600001/ (2019/12/14参照) }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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