須々万沼城 のバックアップの現在との差分(No.1)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 須々万沼城は周南市の山間の盆地にある、三方を沼に囲まれた低い丘の最上部に本丸を置いた東西150m、南北100mほどの城であった。 築城時期は室町時代とされるが築城者は不明。 現在の城跡は病院や住宅、畑など民有地となっており、わずかに土塁らしきものが残るだけである。 現在の城跡は介護施設や住宅、畑など民有地となっており、わずかに土塁らしきものが残るだけである。 //文章(めい #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ //天文24年(1555)10月、厳島の戦いで陶晴賢を破った毛利元就は //後日追記します(めい 天文24年(1555年)10月、厳島の戦いで大内軍の主力陶晴賢を破った毛利元就はすぐさま大内氏領周防・長門侵攻作戦を開始、調略と合戦で周防国東部を平定した。([[鞍掛山城]]合戦・宇賀島水軍平定など) 続いて周防国西部へ侵攻する毛利軍は弘治2年(1556年)4月20日元就の嫡子隆元(小早川隆景説もあり)率いる兵約50騎(5,000騎の誤記と思われる)で須々万沼城に押し寄せた。 籠城する兵力は3,000(先の鞍掛山城合戦の生き残りを加えた10,000とも)、しかし城方は近くを流れる小辻川を堰き止め城の三方を囲う沼沢の水位を上げ防備を強化していたので、城主・山崎伊豆守興盛と大内氏援軍・江良弾正忠賢宣に撃退され毛利軍は退去を余儀なくされた。 9月22日に再び、隆元が大軍を率いて来攻したが、沼に悩まされて進めず両軍の全面衝突には至らなかった。 弘治3年(1557年)2月29日、(2月19日説あり)元就自身が10,000余騎で総攻撃を開始、沼に編み竹を投げ入れ、この上に莚を敷いて押し渡り城中に攻め入ったため、城主山崎伊豆守興盛は陣頭指揮で必死に抵抗したがやがて力尽き、江良弾正忠賢宣は城を出て降参、伊豆守父子は自刃、3月3日落城した。この戦いで籠城していた男女1,500人余は討たれたともいわれる。 参考:現地案内板ほか //文章(めい }}} |BGCOLOR(#ddd):100|300|c |所在地|山口県周南市須々万本郷字要害| |現存状態|土塁など| |城郭構造|沼城| #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){沼をわたる女伝説クリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 須々万地区には沼城の戦いを物語る哀話として「沼をわたる女」伝説がある。 毛利元就は北から沼城を見下ろす緑山に、小早川隆影の一隊は南から日隈山に陣取り沼城を攻めたが、山崎伊豆守は近くを流れる小辻川を東の山の狭いところでせき止め、城の南にある沼を広げて、毛利軍が攻め寄れないようにした。低い土地は一面の水浸しになりますます攻め込むことが難しくなり勝敗はつかず1年がたった。 春のある夜、籠城する沼城にて赤々と灯りがともされ酒盛りが開かれた。にぎやかな歌声が沼の水にわたり、緑山にこだまし、毛利軍にも聞こえ困惑させた。 そのとき沼をゆうゆうと渡っていく人影があった。人影は沼城の方へ進んで行く。 両軍の兵士の目が一斉にその女に集まった。女は人の歩く姿ではなく、何かの化身を思わせるような素振りで先へ先へと静かに渡っていく。 辺りは静まり返って物音ひとつ聞こえない。浅瀬をわたる水の音がぴたりと止む。その静けさを破るように悲しそうな女の歌声が聞こえてきた。 ''恋ふ人は沼の彼方よ 濡れぬれて わたるわれをば とかめ給ふな'' (私の大事な人は、沼の向こうにいる。沼の水と涙にぬれながら、沼を渡っていく私を叱らないでほしい) 歌い終わった女は再びかすかな水音をたてながら沼を渡り、とうとう沼城へと渡っていった。 この様子をじっと見ていた隆景は、その不思議な女の渡ったところから攻め込めば沼城はきっと落とせるに違いないと考えた。 そこで用意していたスノコやムシロを次々と敷くと、その上を通って毛利軍は沼城になだれこんでいった。さしもの沼城もついに落ちた。 参考:山口の伝説 編/山口県小学校教育研究会国語部 出版/日本標準 //問題があれば削除します 文章(めい }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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