大宰府鴻臚館 のバックアップ差分(No.2)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 難波鴻臚館、平安京鴻臚館とならぶ外国使節団への迎賓施設として機能した。天武天皇2年(673年)に「筑紫大郡」、持統天皇3年(689年)には「筑紫小郡」、その中間にあたる持統天皇2年(688年)には「筑紫館」という名称が登場する。 難波鴻臚館、[[平安京]]鴻臚館とならぶ外国使節団への迎賓施設として機能した。天武天皇2年(673年)に「筑紫大郡」、持統天皇3年(689年)には「筑紫小郡」、その中間にあたる持統天皇2年(688年)には「筑紫館」という名称が登場する。 名称変遷の末、平安時代初期に鴻臚館(こうろかん)と名を改めた。もともとは使節団が入京か放還かが決定するまでの滞在所として築造され機能した施設であり、対敵用の防衛設備などはほとんどなく、簡単な濠と石垣のみが存在する。 使節団はその扱いが決定するまで当施設内にてかなりの期間にわたり監視・管理されていたという。はるばる海外から渡来してもすぐ会えるわけではない。当然ではあるが、そのまま野に放置しておくわけにもいかない。 判断が下されるまでに時間を要すため、それに対応する施設が必要となった、という尤もな考えのもと鴻臚館がその機能を果たした。 |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|福岡県福岡市中央区 [[福岡城]]内| |現存状態|資料館として保護(石垣あり)| |城郭構造|館| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){客館から防衛拠点へ施設機能の変化(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ **客館から防衛拠点へ施設機能の変化 戦後の発掘調査により、銅貨やイスラム圏の青釉陶器、ペルシアガラス、窯青磁、越州系の香炉など海外製品が多く出土している。さらには最古のトイレと思わしき厠も発見された。男女別、またさらには日本人と外国人とも用を足す場所が違う。 **客館から防衛拠点へ施設機能の変化 [#xb577964] 戦後の発掘調査により、銅貨やイスラム圏の青釉陶器、ペルシアガラス、窯青磁、越州系の香炉など海外製品が多く出土している。さらには北館・南館跡よりトイレの遺構も発見された。特徴として男女別、またさらには日本人と外国人とも用を足す場所が違う。 これは肉食文化を持つ外国人とそうでない日本人を分けたのであろうと考えられている。と同時に古来のトイレットペーパーである籌木(ちゅうぎ)、つまりは排泄物をこそぎ取るための木ベラも確認されている。 出土品の中には少々面白いものも見つかった。寄生虫の卵とウリ科の種である。古代よりウリの種は虫下しに効果があるとされ好んで食されていた。ウリの種が大量に見つかったことで、当時より健康への関心とその管理意識・対策の存在が判明したのだ。 #br 防衛施設化へ、その理由においては『日本三代実録』にもある新羅海賊の襲撃事件がきっかけとなる。 ''「太宰府曰く、去る月二十二日夜、新羅海賊、艦二艘に乗り、博多津に来たりて豊前国年貢の絹綿を掠奪して、即時、逃鼠す。兵を発し追うも、ついに賊を獲ず、と。」'' とあり、貞観11年(869年)新羅海賊による貢綿船襲撃のうえ絹綿の掠奪を受けたにもかからわず、結局は捉えられなかったこと記した。 坂上大宿禰瀧守の卒伝によれば、瀧守はこの事件を受けすぐさま太宰府権少弐に任命され、鴻臚館の防備充実を図るため、武具のほか兵力としては夷俘(いふ)の調発を申請し博多警固所の警備とした。 ただ、その後寛平5年(893年)肥後国の松浦郡と飽田郡に再び同海賊が現れ、翌年には対馬島で同じように襲撃にあったと『日本紀略』に記述が残る。 }}} #br |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|福岡県福岡市中央区 福岡城内| |現存状態|資料館として保護(石垣あり)| |城郭構造|館| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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