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花沢城
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現実の城情報 Edit

花沢城は、日本坂(焼津市)から小坂(静岡市)へ至るルート(古東海道)をおさえる駿府の西の守りとして今川方によって築かれた戦国時代の山城です。
築城の時期は明らかではありませんが、武田信玄による駿河侵攻にともない激戦地となった事で著名です。桶狭間の戦いでの今川義元の敗死と、寿桂尼(義元の母)の相次ぐ死によって、求心力を失った今川家領国に甲斐の武田信玄が侵攻を開始したのは永禄11年(1568)のことです。重臣たちの相次ぐ戦線離脱と敗北により、義元の跡を継いだ今川氏真は今川館を追われ、懸川城に立て籠もります。永禄13年、今川家臣岡部氏を傘下に入れた信玄は、山西地域(志太郡・益津郡)への侵攻を開始しました。このとき、花沢城の守りにあたっていたのが遠州宇津山城を脱出後、花沢城に入城した小原肥前守鎮実です。信玄は花沢城を攻めるにあたって、城を見下ろす西側の高草山の中腹に陣を構えたといわれています。正月4日に武田信廉・武田勝頼・長坂長閑らによって攻撃が開始されましたが、天然の要害を利用した城のつくりと、今川方の勇猛な抗戦により、城が落ちたのは正月27日のことです。花沢城を落とした信玄は、続いて長谷川正長が守る徳一色城(田中城)を落とし、山西地域を支配下に置きました。
花沢城の各所には現在も堀や土塁、曲輪の跡が残されています。稲荷神社が祀られた山頂部には、堀によって区切られた一の曲輪、二の曲輪が存在します。一の曲輪の北側にはわずかに土塁も残っています。二の曲輪から南に伸びる尾根上には、現在茶畑となった曲輪が3か所ほど存在します。堀は、吉津地区から高崎地区へと抜ける市道が通っている切通しが最も大きなもので、その他、一の曲輪と二の曲輪の間に残存する堀も残り具合が良好です。
 『花沢城跡』説明板より引用

所在地静岡県焼津市吉津
現存状態土塁、竪堀、堀切、曲輪
城郭構造山城

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