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日隈城
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文禄元年(1592)、豊臣秀吉は毛利高政を日田六万石で日隈城に封じたが、同三年、秀吉は宮木長次郎を玖珠・日田両郡の守代とした。このとき日隈山上には真光寺という寺があったが、これを竹田村(日田市内)に移して城を築き、城下町も田嶋村から民家を移して形成した。 文禄四年、毛利高政が日隈城代となって父毛利友重が居住した。慶長元年(1596)、城を修築して五層六階の天守・三層の月見櫓・丹後丸櫓・二の丸門櫓・北の三の丸櫓・三本松大門などを建てて、初めて本格的な城郭ができあがった。 慶長五年、関ヶ原合戦が起こり、毛利氏は最初西軍であったので中津城主となった黒田氏は宇佐・下毛の諸城を攻略して、黒田氏の将栗山利安を日田郡に攻め入らせた。日隈城の城代毛利隼人佐は、財津氏など日田軍衆と籠城して城を固めた。黒田勢は大原に陣を張り、再三使者を出して説得したのでついに開城して流血をみずにすんだ。慶長六年、毛利高政は佐伯二万石に封じられたが、この日隈城も引き続いて預りとなり守代を置いた
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