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> 高槻城
高槻城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 日本を代表するキリシタン大名である高山右近によって、大規模なキリシタンの城下町が形成されたことで知られる城。 文献上の初見は『細川両家記』の大永7年(1527年)の記述で、摂津守護の細川京兆家の争いで登場した「高槻入江城」である。 当時の高槻には南北朝時代に駿河から移ってきた入江氏がおり、度々「高槻」の名を冠して呼ばれたように、この地の中心勢力だった。 高槻の地は摂津の幹線道路である西国街道の芥川宿から伸びた道と、茨木・富田の町場を通る三島路が交差し、淀川の港である前島へと至る道にもつながる、水陸交通の要衝だった。 入江氏はこの地に城館を構え地域支配の拠点としていたが、永禄11年(1568年)に足利義昭を擁して上洛した織田信長に対し、これに対抗した三好三人衆に与したため没落した。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 代わって高槻城を与えられたのが和田惟政で、[[芥川山城]]から移って高槻城を本城とし、義昭から摂津守護に任じられ「摂津三守護」と称された。 惟政は高槻城を改修し周囲に一重の堀を巡らせたとされるが、元亀2年(1571年)に白井河原の戦いで討死し、子の惟長は有力家臣の高山友照・右近父子と対立して敗れ、高槻城を追われた。 『兼見卿記』には、この時起こった高槻城内の乱闘において、惟長が「天主」に逃げ込んだとの記述がある。 #br 惟長の没落後は友照が高槻城主となり、信長から摂津の支配を任された[[有岡城]]の荒木村重の支配下に入った。 友照はやがて右近に城主の地位を譲り、熱心なキリシタンである右近によって城の周囲には教会や修学寮などキリスト教の関連施設が建てられ、高槻城下は大規模なキリシタンの城下町として栄えた。 平成22年(2010年)の発掘調査では、本丸で幅24メートルの堀と二の丸で幅19メートルの堀が発見され、さらに二の丸と三の丸の間で幅9メートルの堀が発見されたと平成29年(2017年)6月1日に高槻市教育委員会が発表した。 これらの堀については、信長に反旗を翻した村重に従った右近が織田軍によって高槻城を攻撃された際、フランシスコ書簡にて「水を満たした広大な堀と周囲の城壁で堅固な城を織田軍は攻めあぐねた」とあるように、高槻城を囲むように設けられたと考えられる。 また当時の大阪平野周辺の寺内町や港町では総構の都市構造が発達しており、高槻城にも右近の時代や後述の豊臣氏の時代にかけて、総構の城下町が形成された可能性が高いとされる。 #br 本能寺の変後に豊臣秀吉は[[大坂城]]の築城を始め、周辺には一族を配置していった。 天正13年(1585年)に右近は播磨明石の船上城へと転封となり、高槻城には羽柴秀勝が入ったがやがて高槻城を去り、以後は豊臣氏の直轄となり文禄4年(1595年)の豊臣秀次切腹事件後は新庄直頼が入った。 平成29年(2017年)6月1日の発掘調査では、豊臣氏直轄時代のものとされる、[[聚楽第]]のものと同じ文様の瓦が出土している。 #br 関ヶ原の戦い以降は徳川氏の代官が周辺支配にあたり、大坂の陣では高槻城は補給基地となった。 豊臣氏滅亡後は元和元年(1615年)に内藤信正が、元和3年(1617年)には土岐定義が城主となり、この年に高槻城は江戸幕府の主導で大改築が行われた。 寛永13年(1636年)に入った岡部宣勝の時代にも増築が行われ、この時代に近世城郭としての高槻城が完成した。 その基本構造は方形の本丸と二の丸が南北に並び、東側に厩郭、南側に弁才天郭を配し、その周囲を三の丸・帯曲輪・蔵屋敷が取り囲むというものだった。 江戸時代中期の絵図では、二の丸の北側に設けられた虎口から堀を挟んで向かい側への橋は無く不明門(あかずのもん)とされていたが、平成29年(2017年)6月1日の発掘調査によって堀に架かっていた長さ15メートル、幅4メートル木橋の橋脚21本が見つかり、江戸時代中期以降にも城に手が加えられていたことが判明した。 高槻城は江戸時代を通じて譜代大名が頻繁に交代して城主を務めていたが、慶安2年(1649年)に永井直清が入ると安定し、以後永井氏13代のもとで幕末を迎え、明治7年(1874年)に廃城となった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|大阪府高槻市城内町・出丸町ほか| |現存状態|堀、移築門など| |城郭構造|平城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 日本を代表するキリシタン大名である高山右近によって、大規模なキリシタンの城下町が形成されたことで知られる城。 文献上の初見は『細川両家記』の大永7年(1527年)の記述で、摂津守護の細川京兆家の争いで登場した「高槻入江城」である。 当時の高槻には南北朝時代に駿河から移ってきた入江氏がおり、度々「高槻」の名を冠して呼ばれたように、この地の中心勢力だった。 高槻の地は摂津の幹線道路である西国街道の芥川宿から伸びた道と、茨木・富田の町場を通る三島路が交差し、淀川の港である前島へと至る道にもつながる、水陸交通の要衝だった。 入江氏はこの地に城館を構え地域支配の拠点としていたが、永禄11年(1568年)に足利義昭を擁して上洛した織田信長に対し、これに対抗した三好三人衆に与したため没落した。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 代わって高槻城を与えられたのが和田惟政で、[[芥川山城]]から移って高槻城を本城とし、義昭から摂津守護に任じられ「摂津三守護」と称された。 惟政は高槻城を改修し周囲に一重の堀を巡らせたとされるが、元亀2年(1571年)に白井河原の戦いで討死し、子の惟長は有力家臣の高山友照・右近父子と対立して敗れ、高槻城を追われた。 『兼見卿記』には、この時起こった高槻城内の乱闘において、惟長が「天主」に逃げ込んだとの記述がある。 #br 惟長の没落後は友照が高槻城主となり、信長から摂津の支配を任された[[有岡城]]の荒木村重の支配下に入った。 友照はやがて右近に城主の地位を譲り、熱心なキリシタンである右近によって城の周囲には教会や修学寮などキリスト教の関連施設が建てられ、高槻城下は大規模なキリシタンの城下町として栄えた。 平成22年(2010年)の発掘調査では、本丸で幅24メートルの堀と二の丸で幅19メートルの堀が発見され、さらに二の丸と三の丸の間で幅9メートルの堀が発見されたと平成29年(2017年)6月1日に高槻市教育委員会が発表した。 これらの堀については、信長に反旗を翻した村重に従った右近が織田軍によって高槻城を攻撃された際、フランシスコ書簡にて「水を満たした広大な堀と周囲の城壁で堅固な城を織田軍は攻めあぐねた」とあるように、高槻城を囲むように設けられたと考えられる。 また当時の大阪平野周辺の寺内町や港町では総構の都市構造が発達しており、高槻城にも右近の時代や後述の豊臣氏の時代にかけて、総構の城下町が形成された可能性が高いとされる。 #br 本能寺の変後に豊臣秀吉は[[大坂城]]の築城を始め、周辺には一族を配置していった。 天正13年(1585年)に右近は播磨明石の船上城へと転封となり、高槻城には羽柴秀勝が入ったがやがて高槻城を去り、以後は豊臣氏の直轄となり文禄4年(1595年)の豊臣秀次切腹事件後は新庄直頼が入った。 平成29年(2017年)6月1日の発掘調査では、豊臣氏直轄時代のものとされる、[[聚楽第]]のものと同じ文様の瓦が出土している。 #br 関ヶ原の戦い以降は徳川氏の代官が周辺支配にあたり、大坂の陣では高槻城は補給基地となった。 豊臣氏滅亡後は元和元年(1615年)に内藤信正が、元和3年(1617年)には土岐定義が城主となり、この年に高槻城は江戸幕府の主導で大改築が行われた。 寛永13年(1636年)に入った岡部宣勝の時代にも増築が行われ、この時代に近世城郭としての高槻城が完成した。 その基本構造は方形の本丸と二の丸が南北に並び、東側に厩郭、南側に弁才天郭を配し、その周囲を三の丸・帯曲輪・蔵屋敷が取り囲むというものだった。 江戸時代中期の絵図では、二の丸の北側に設けられた虎口から堀を挟んで向かい側への橋は無く不明門(あかずのもん)とされていたが、平成29年(2017年)6月1日の発掘調査によって堀に架かっていた長さ15メートル、幅4メートル木橋の橋脚21本が見つかり、江戸時代中期以降にも城に手が加えられていたことが判明した。 高槻城は江戸時代を通じて譜代大名が頻繁に交代して城主を務めていたが、慶安2年(1649年)に永井直清が入ると安定し、以後永井氏13代のもとで幕末を迎え、明治7年(1874年)に廃城となった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|大阪府高槻市城内町・出丸町ほか| |現存状態|堀、移築門など| |城郭構造|平城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)