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> 紀伊大野城
紀伊大野城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 14世紀後半から15世紀後半にかけて紀伊の守護所が置かれていた、紀北でも有数の山城。 永和4年・天授4年(1378年)に紀伊守護となった山名義理が、有田郡以南を拠点として活動していた南朝方の橋本正督らを抑えるため、府中(和歌山市)にあった守護所を大野(海南市)に移したのが始まりとされる。 紀伊守護にはその後大内氏・細川氏が任じられるが、細川氏の下で大野で守護役が賦課されていたことが『高野山文書』に記されている。 15世紀後半以降、畠山家中で起こった内紛の際には広(広川町)が攻防の中心となっていることから、この頃に守護所が大野から広に移されたとされる。しかし永禄年間(1558~1570年)に畠山氏の軍勢が大野にも集結したとする『畠山記』などの史料もあり、守護所が移転してからも使用されたとも考えられている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 紀伊大野城は城域が東西に細長く延びて曲輪間の連絡が極めて弱く、このような分散的な縄張構造は築城主体の権力基盤の脆弱さや家臣の独立性を示すと考えられている。しかし紀伊大野城の南には熊野街道の間道が東西に通っており、この間道の掌握を目的として城が築かれたため細長い構造になったとも考えられる。 また紀伊大野城の西には地蔵峰寺城という小規模な山城があり、その構造が紀伊大野城と似通っていることから両城は密接な関係にあり、熊野街道を直接監視する地蔵峰寺城と、大規模な軍事行動に対応する紀伊大野城という役割分担がなされ、両城が一体となって機能していたとされる。 #br 紀伊大野城の麓に位置する大野中は熊野街道と高野街道が交わる交通の要衝であり、中世には市が開かれていた。守護の館は「山名屋敷」と伝えられる約100メートル四方の区画にあたっとされ、紀伊大野城はこの平地の守護館とともに機能し、守護所が移転すると廃城になったと考えられてきた。 しかし紀伊大野城には畝状空堀群や横堀などの防御施設が発達し、それらが一定の構想の下で普請されていることから、戦国時代においても使用されたとされる。 また紀伊大野城は比高が400メートル以上と非常に高く、麓からかなりの距離があることから平地の守護館とどこまで一体となって機能していたかはっきりせず、現存する遺構は熊野街道やその間道との関わりが顕著で、麓との関係性は弱い。 以上のことから、15世紀前半までの遺構が多い東側の曲輪群は守護所が置かれていた時期にも機能していたが、その他の曲輪群は戦国時代に熊野街道を押さえるという軍事的な目的で新造あるいは改修されたと考えられている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|和歌山県海南市大野中| |現存状態|石積、堀、土塁など| |城郭構造|山城| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ **城郭構造 [#z24d34df] 紀伊大野城は名草郡と海部郡の境に東西に伸びる尾根上に二つの曲輪群を持ち、それぞれ「東の城」「西の城」と呼ばれる。両者は約250メートル隔たっているが、その間の尾根上には城郭遺構は見られない。 東の城は二本の大きな堀切で分断された三つの曲輪群で構成され、最東端の曲輪群は三段の曲輪からなり、南端に小さい曲輪が付属する。この曲輪群では発掘調査によって建物の存在を示す礎石列や壁面を補強するための石列や石段が発見され、その時期は麓に置かれた守護所の存続時期と重なっている。 中央の曲輪群は尾根上の曲輪の南側斜面に、雛壇状の曲輪が連なる。これらの曲輪はいずれも小規模で、尾根上の曲輪を守るための斜面防御のために設けられたとされ、一部に石積が見られる。また北側斜面の防御としては土塁が設けられた。 西側の曲輪群では四段の曲輪が尾根上に置かれ、南側斜面に石積で補強された傾斜路があり、城下の間道に通じていたとされる。 東の城全体としてはその南側斜面には複数の竪堀があり、これらを連結することで敵が斜面を移動する際、横の移動だけでなく縦の移動も阻止する効果を発揮し、標高差もあいまって強力な防衛線を形成している。 #br 西の城は東の城とは対照的に横堀による防衛線を主体とする構造で、標高約420メートルに置かれた曲輪が最高所となり、ほぼ自然地形のままとなっている。 その南西に置かれた曲輪には高さ約4メートルの切岸が設けられ、下の横堀と合わせて強力な遮断機能を持っている。この横堀内には障壁が築かれ、敵が堀内を横に移動することを防いだ。 #br 紀伊大野城を全体として見ると、東の城の最東端の曲輪群のみが明確な防御施設を持っていないことが特徴として挙げられる。 これは紀伊大野城の防御は敵が熊野街道方面から侵攻すると想定し、西の尾根上に設けられた他の曲輪群が侵攻を阻止することを意図したものとされる。 その場合、最東端の曲輪群は最も安全な位置にあることになり、そのため最東端の曲輪群が紀伊大野城の中心に位置づけられていたといえる。 このように城内の外縁部で防御施設が発達する城造りは、紀伊大野城と同じく畠山氏が用いた他の城でも確認され、守護による城造りの一つのパターンとも考えられている。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 14世紀後半から15世紀後半にかけて紀伊の守護所が置かれていた、紀北でも有数の山城。 永和4年・天授4年(1378年)に紀伊守護となった山名義理が、有田郡以南を拠点として活動していた南朝方の橋本正督らを抑えるため、府中(和歌山市)にあった守護所を大野(海南市)に移したのが始まりとされる。 紀伊守護にはその後大内氏・細川氏が任じられるが、細川氏の下で大野で守護役が賦課されていたことが『高野山文書』に記されている。 15世紀後半以降、畠山家中で起こった内紛の際には広(広川町)が攻防の中心となっていることから、この頃に守護所が大野から広に移されたとされる。しかし永禄年間(1558~1570年)に畠山氏の軍勢が大野にも集結したとする『畠山記』などの史料もあり、守護所が移転してからも使用されたとも考えられている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 紀伊大野城は城域が東西に細長く延びて曲輪間の連絡が極めて弱く、このような分散的な縄張構造は築城主体の権力基盤の脆弱さや家臣の独立性を示すと考えられている。しかし紀伊大野城の南には熊野街道の間道が東西に通っており、この間道の掌握を目的として城が築かれたため細長い構造になったとも考えられる。 また紀伊大野城の西には地蔵峰寺城という小規模な山城があり、その構造が紀伊大野城と似通っていることから両城は密接な関係にあり、熊野街道を直接監視する地蔵峰寺城と、大規模な軍事行動に対応する紀伊大野城という役割分担がなされ、両城が一体となって機能していたとされる。 #br 紀伊大野城の麓に位置する大野中は熊野街道と高野街道が交わる交通の要衝であり、中世には市が開かれていた。守護の館は「山名屋敷」と伝えられる約100メートル四方の区画にあたっとされ、紀伊大野城はこの平地の守護館とともに機能し、守護所が移転すると廃城になったと考えられてきた。 しかし紀伊大野城には畝状空堀群や横堀などの防御施設が発達し、それらが一定の構想の下で普請されていることから、戦国時代においても使用されたとされる。 また紀伊大野城は比高が400メートル以上と非常に高く、麓からかなりの距離があることから平地の守護館とどこまで一体となって機能していたかはっきりせず、現存する遺構は熊野街道やその間道との関わりが顕著で、麓との関係性は弱い。 以上のことから、15世紀前半までの遺構が多い東側の曲輪群は守護所が置かれていた時期にも機能していたが、その他の曲輪群は戦国時代に熊野街道を押さえるという軍事的な目的で新造あるいは改修されたと考えられている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|和歌山県海南市大野中| |現存状態|石積、堀、土塁など| |城郭構造|山城| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ **城郭構造 [#z24d34df] 紀伊大野城は名草郡と海部郡の境に東西に伸びる尾根上に二つの曲輪群を持ち、それぞれ「東の城」「西の城」と呼ばれる。両者は約250メートル隔たっているが、その間の尾根上には城郭遺構は見られない。 東の城は二本の大きな堀切で分断された三つの曲輪群で構成され、最東端の曲輪群は三段の曲輪からなり、南端に小さい曲輪が付属する。この曲輪群では発掘調査によって建物の存在を示す礎石列や壁面を補強するための石列や石段が発見され、その時期は麓に置かれた守護所の存続時期と重なっている。 中央の曲輪群は尾根上の曲輪の南側斜面に、雛壇状の曲輪が連なる。これらの曲輪はいずれも小規模で、尾根上の曲輪を守るための斜面防御のために設けられたとされ、一部に石積が見られる。また北側斜面の防御としては土塁が設けられた。 西側の曲輪群では四段の曲輪が尾根上に置かれ、南側斜面に石積で補強された傾斜路があり、城下の間道に通じていたとされる。 東の城全体としてはその南側斜面には複数の竪堀があり、これらを連結することで敵が斜面を移動する際、横の移動だけでなく縦の移動も阻止する効果を発揮し、標高差もあいまって強力な防衛線を形成している。 #br 西の城は東の城とは対照的に横堀による防衛線を主体とする構造で、標高約420メートルに置かれた曲輪が最高所となり、ほぼ自然地形のままとなっている。 その南西に置かれた曲輪には高さ約4メートルの切岸が設けられ、下の横堀と合わせて強力な遮断機能を持っている。この横堀内には障壁が築かれ、敵が堀内を横に移動することを防いだ。 #br 紀伊大野城を全体として見ると、東の城の最東端の曲輪群のみが明確な防御施設を持っていないことが特徴として挙げられる。 これは紀伊大野城の防御は敵が熊野街道方面から侵攻すると想定し、西の尾根上に設けられた他の曲輪群が侵攻を阻止することを意図したものとされる。 その場合、最東端の曲輪群は最も安全な位置にあることになり、そのため最東端の曲輪群が紀伊大野城の中心に位置づけられていたといえる。 このように城内の外縁部で防御施設が発達する城造りは、紀伊大野城と同じく畠山氏が用いた他の城でも確認され、守護による城造りの一つのパターンとも考えられている。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)