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> 竹山城
竹山城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 竹山城(たけやまじょう)は岡山県美作市(美作国吉野郡)にあった標高430mの山に築かれた山城。 築城時期は不明であるが、 延文5年(1360年)南朝方についた山名氏の旗下の小林重長が攻め落としたと記録されている。 美作北東部にあたる吉野郡は室町期には但馬を拠点とする山名氏と播磨を拠点とする赤松氏の争奪の場となり、度々領主が入れ替わっていった。 そんな中明応2年(1493年)赤松氏の支族であるという新免貞重が竹山城に移り、以降新免氏が一帯を支配した。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 新免氏は赤松氏の配下であったというが、貞重の子宗貞の代には衰退の色を隠せなくなった赤松氏から離れ、備前浦上氏についていた。 同時代には尼子氏が美作へと勢力を伸ばし始め、天文21年(1552年)尼子晴久が出雲など8カ国の守護となった中に美作が含まれていたことから、尼子氏が本格的に美作へ進出を始める。 これに対し、新免氏をはじめとする吉野郡の国人は尼子氏に抵抗、結果、天文23年(1554年)尼子氏の攻撃によって新免氏は竹山城から追われてしまう。 しかし、毛利氏の攻勢により尼子氏の勢力が衰えると、美作は再度浦上氏の勢力圏となった後、これにかわった宇喜多氏の支配下に入る。 新免氏も宗貞の子宗貫が宇喜多直家に従って戦功を上げたことでようやく吉野郡に復帰。 その後は宇喜多家臣として活動を続けたが、関ヶ原の戦いによって宇喜多氏が没落すると、新免氏も吉野郡の所領を失うこととなった。 この時竹山城は廃城となり、新免氏は黒田氏の招きを受け九州に渡り、以降黒田家臣として続いた。 #br 山頂付近の主郭部分は無線設備等の建築により大きく改変を受けたため、めぼしい遺構に乏しく、そこから西に離れた坊主ヶ丸と呼ばれる一帯に曲輪の痕跡が確認できる程度である。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|岡山県美作市下町| |現存状態|曲輪| |城郭構造|山城| //題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。 //初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、Edit番号の入力は任意でお願いします。 #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){新免氏と宮本武蔵(クリックで表示)}; }} #style(class=submenu){{ //Edit番号不要、またはEdit番号についてよく分からない場合は次行はコメントアウトしたままにしておいて下さい。 ***新免氏と宮本武蔵 [#sf4c25e8] 竹山城のある旧大原町下町地区は新免姓も持つ宮本武蔵の生誕伝承地の1つであり、智頭急行智頭線の宮本武蔵駅がある他、宮本武蔵に関連するという施設が多数存在する。 さて、宮本武蔵と竹山城主新免氏の関係であるが、武蔵の父(実父とも養父とも)新免無二が新免氏の一族であった、家臣であったなどの説が存在している。 とはいえ、父新免無二も含めて出自に関してはあまりにも不明瞭な部分が多く、実際のところがどうであるかは現状闇の中と言う他ないだろう。 #br }} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)