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> 本荘城
本荘城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 本荘城は江戸時代の本荘藩の藩庁として築かれた平山城である。 子吉川中下流域に広がる本庄平野の西端部にあたる山塊の北東端にあたる比高約20mの丘陵を利用しており、頂上部の本丸の周囲を二の丸が囲み、北の一段低いところに平時の居館などが配された三の丸が位置している。 天守を有さず代用の二重櫓が置かれた、虎口はすべて枡形虎口である、など近世城郭の色が非常に色濃く表れている。 子吉川下流域は戦国期までは由利十二頭の一勢力としてあげられる子吉氏の勢力下にあったと考えられているが、子吉氏の拠点は現在よりも上流よりであったと考えられている。 由利十二頭の一部勢力は奥州仕置の後も当地の支配を認められていたが、慶長出羽合戦の後処理において常陸への転封などにより当地を離れ、かわって最上家の重臣楯岡満茂が由利一帯4万5千石を与えられた。 満茂はいったんは所領北側に位置する[[赤尾津城]]に入ったが、便が悪いということで新たに城を築くことになり当地が選ばれた。 そうして慶長18(1613)年に築かれたのが本城城という城で、場所は同じであるが、山の麓部分まで含めたより規模の大きな城であったとされている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 元和8(1622)年に最上騒動によって最上氏が改易となると楯岡満茂も当地を離れ、かわって宇都宮城釣り天井事件などのかどで失脚した本多正純に与えられることになったが、その後佐竹氏預かりとなったことで話は立ち消えになった。この流れの中で楯岡氏時代の城郭はいったん破却されている。 最終的に常陸府中藩(1万石)六郷政乗(六郷氏も元々は出羽の国人領主)が本荘藩2万2千石として加増の上転封することで落ち着いた。 政乗も本城城を政庁拠点として見出し、財政を考慮して規模を縮小した上で再度整備を行い、さらに城下町の整備も進め、現在の由利本荘市中心部の原型が形成されていった。 後を継いだ六郷正勝の代に本荘城と名前が改められ、幕末に至るまで本荘藩六郷氏の居城となった。 慶応4(1868)年戊辰戦争の舞台が東北に移ると、本荘藩は周囲の亀田藩などとともに新政府方についたが、旧幕府軍でも特に有力な勢力であった庄内藩の圧力を受けることになる。 新政府軍側の中途半端な振る舞いもあり庄内藩の進軍を止めることはできず、秋田南方の小藩は新政府軍から居城を破却の上所領から撤退することを命じられ、本荘藩11代当主六郷政鑑は城に火をかけて退却した。 そして、そのまま明治2(1869)年の版籍奉還にあわせ廃城となった。 #br 現在では本丸から二の丸にかけての一帯と三の丸跡の一部は本荘公園として整備されており、土塁や堀が保存されている他、三の丸跡地の北側には模擬城門も設置されている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|秋田県由利本荘市尾崎| |現存状態|土塁、堀| |城郭構造|平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 本荘城は江戸時代の本荘藩の藩庁として築かれた平山城である。 子吉川中下流域に広がる本庄平野の西端部にあたる山塊の北東端にあたる比高約20mの丘陵を利用しており、頂上部の本丸の周囲を二の丸が囲み、北の一段低いところに平時の居館などが配された三の丸が位置している。 天守を有さず代用の二重櫓が置かれた、虎口はすべて枡形虎口である、など近世城郭の色が非常に色濃く表れている。 子吉川下流域は戦国期までは由利十二頭の一勢力としてあげられる子吉氏の勢力下にあったと考えられているが、子吉氏の拠点は現在よりも上流よりであったと考えられている。 由利十二頭の一部勢力は奥州仕置の後も当地の支配を認められていたが、慶長出羽合戦の後処理において常陸への転封などにより当地を離れ、かわって最上家の重臣楯岡満茂が由利一帯4万5千石を与えられた。 満茂はいったんは所領北側に位置する[[赤尾津城]]に入ったが、便が悪いということで新たに城を築くことになり当地が選ばれた。 そうして慶長18(1613)年に築かれたのが本城城という城で、場所は同じであるが、山の麓部分まで含めたより規模の大きな城であったとされている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 元和8(1622)年に最上騒動によって最上氏が改易となると楯岡満茂も当地を離れ、かわって宇都宮城釣り天井事件などのかどで失脚した本多正純に与えられることになったが、その後佐竹氏預かりとなったことで話は立ち消えになった。この流れの中で楯岡氏時代の城郭はいったん破却されている。 最終的に常陸府中藩(1万石)六郷政乗(六郷氏も元々は出羽の国人領主)が本荘藩2万2千石として加増の上転封することで落ち着いた。 政乗も本城城を政庁拠点として見出し、財政を考慮して規模を縮小した上で再度整備を行い、さらに城下町の整備も進め、現在の由利本荘市中心部の原型が形成されていった。 後を継いだ六郷正勝の代に本荘城と名前が改められ、幕末に至るまで本荘藩六郷氏の居城となった。 慶応4(1868)年戊辰戦争の舞台が東北に移ると、本荘藩は周囲の亀田藩などとともに新政府方についたが、旧幕府軍でも特に有力な勢力であった庄内藩の圧力を受けることになる。 新政府軍側の中途半端な振る舞いもあり庄内藩の進軍を止めることはできず、秋田南方の小藩は新政府軍から居城を破却の上所領から撤退することを命じられ、本荘藩11代当主六郷政鑑は城に火をかけて退却した。 そして、そのまま明治2(1869)年の版籍奉還にあわせ廃城となった。 #br 現在では本丸から二の丸にかけての一帯と三の丸跡の一部は本荘公園として整備されており、土塁や堀が保存されている他、三の丸跡地の北側には模擬城門も設置されている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|秋田県由利本荘市尾崎| |現存状態|土塁、堀| |城郭構造|平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)