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> 木曾福島城
木曾福島城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 木曽福島城(ふくしまじょう)は戦国期における信濃の有力国人木曾氏の本城であった山城である。 木曽川とその支流黒川に挟まれた山塊の先端部に築かれており、地形を生かしながら堀切などで防御を固めている。 木曾氏は木曾谷一帯に勢力を伸ばした国人領主で木曾義仲の子孫を称したが、実際には藤原秀郷流沼田氏の一族が南北朝期に恩賞として得て入部したものと考えられている。 室町期にかけて周辺勢力との抗争を繰り広げつつ勢力を広げ、天文期には当主木曾義康が信濃四大将の一人に数えられるなど、信濃でも有数の国人領主へと成長を遂げている。 福島城は天文期に義康により築かれたとされ、平時の政庁である麓の上之段城に対する詰めの城として機能したものと考えられている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 甲斐の武田氏が諏訪氏を滅ぼし信濃へと勢力を広げ始めると、木曾氏はこれに抵抗し、天文18年(1549年)の武田氏の攻撃を撃退している。 しかし、小笠原氏や村上氏を逐い中信を平定した武田氏が天文23年(1554)年から南信へと本格的に侵攻を開始するとこれに降伏し、武田氏に出仕することとなる。 武田信玄は美濃との国境に近い木曾を治める木曾氏の存在を重要視し、自身の三女真理姫を義康の嫡男義昌に嫁がせ一門衆に組み入れることで、その取り込みを図っている。 その後、武田氏が織田氏の前に凋落の兆しを見せると、天正10年(1582年)義昌は織田氏に通じて反旗を翻し、これがきっかけとなり武田氏は滅亡することとなった。 武田氏の滅亡により信濃は再び動乱の時代を迎え、福島城も本能寺の変後、美濃へと脱出を図る森長可に占領されるなどしている(これは義昌が自分の命を狙っていると察した長可が義昌の嫡男を人質にとるためにとった行動とされる)。 福島城は築城から長らく木曾氏の城であったが、家康の関東移封の際に木曾氏も下総阿知戸へと移封となったため、福島城はこの際に廃城となったとされる。 #br 城跡付近は城山史跡の森として管理・整備が行われており、本丸から二の丸・三の丸にかけての一帯の登山道や案内板が整備されている。 遺構としても、主要な曲輪やそれらの間の堀切、竪堀などの跡などを確認することができる。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|長野県木曽郡木曽町福島城山| |現存状態|堀切、竪堀など| |城郭構造|山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 木曽福島城(ふくしまじょう)は戦国期における信濃の有力国人木曾氏の本城であった山城である。 木曽川とその支流黒川に挟まれた山塊の先端部に築かれており、地形を生かしながら堀切などで防御を固めている。 木曾氏は木曾谷一帯に勢力を伸ばした国人領主で木曾義仲の子孫を称したが、実際には藤原秀郷流沼田氏の一族が南北朝期に恩賞として得て入部したものと考えられている。 室町期にかけて周辺勢力との抗争を繰り広げつつ勢力を広げ、天文期には当主木曾義康が信濃四大将の一人に数えられるなど、信濃でも有数の国人領主へと成長を遂げている。 福島城は天文期に義康により築かれたとされ、平時の政庁である麓の上之段城に対する詰めの城として機能したものと考えられている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 甲斐の武田氏が諏訪氏を滅ぼし信濃へと勢力を広げ始めると、木曾氏はこれに抵抗し、天文18年(1549年)の武田氏の攻撃を撃退している。 しかし、小笠原氏や村上氏を逐い中信を平定した武田氏が天文23年(1554)年から南信へと本格的に侵攻を開始するとこれに降伏し、武田氏に出仕することとなる。 武田信玄は美濃との国境に近い木曾を治める木曾氏の存在を重要視し、自身の三女真理姫を義康の嫡男義昌に嫁がせ一門衆に組み入れることで、その取り込みを図っている。 その後、武田氏が織田氏の前に凋落の兆しを見せると、天正10年(1582年)義昌は織田氏に通じて反旗を翻し、これがきっかけとなり武田氏は滅亡することとなった。 武田氏の滅亡により信濃は再び動乱の時代を迎え、福島城も本能寺の変後、美濃へと脱出を図る森長可に占領されるなどしている(これは義昌が自分の命を狙っていると察した長可が義昌の嫡男を人質にとるためにとった行動とされる)。 福島城は築城から長らく木曾氏の城であったが、家康の関東移封の際に木曾氏も下総阿知戸へと移封となったため、福島城はこの際に廃城となったとされる。 #br 城跡付近は城山史跡の森として管理・整備が行われており、本丸から二の丸・三の丸にかけての一帯の登山道や案内板が整備されている。 遺構としても、主要な曲輪やそれらの間の堀切、竪堀などの跡などを確認することができる。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|長野県木曽郡木曽町福島城山| |現存状態|堀切、竪堀など| |城郭構造|山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)