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> 山入城
山入城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 常陸源氏の名門・佐竹氏の庶流で、佐竹氏一門のなかでも筆頭として勢力を誇った山入家の本拠で、国安城とも呼ばれる。 山入家は佐竹氏第8代当主佐竹貞義の七男・師義を祖とし、師義は足利尊氏に与して観応の擾乱を戦い討死したとされる。師義の戦功によって子の与義は佐竹氏の所領から久慈東・西郡や依上保などを与えられ、また小田野や高柿などの庶家も分立させ、佐竹宗家をも凌ぐ勢力を持つようになった。 応永14年(1407年)、佐竹宗家が第11代当主佐竹義盛の跡継ぎに関東管領山内上杉憲定の次男・龍保丸を迎えることを決定すると、与義はこれに反発して山入の乱が勃発、[[額田城]]の額田義亮や長倉城の長倉義景など佐竹庶家の多くが与義に同調して佐竹宗家と内紛を繰り広げた。 佐竹氏の跡継ぎ問題は関東公方足利持氏の支援を得た龍保丸が佐竹氏に養子として入り、佐竹義憲(後に義人と改名)として家督を継承した。与義は一時降伏したが、上杉禅秀の乱でも佐竹宗家や持氏に反発し、持氏と室町幕府との関係が悪化すると与義は室町幕府から京都御扶持者に任じられ、関東公方に対する目付役を担った。 与義は応永29年(1422年)に討死するが、その子祐義は室町幕府によって常陸守護に任じられ、これに持氏や義人が反発したため常陸には守護が併存する状況となった。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 山入家はその後も佐竹氏の内紛に介入し続け、山入家の佐竹義知は文明10年(1478年)、佐竹宗家が山入家に対抗するために取り立てた[[久米城]]を攻め、城代の佐竹義武(北義武)が討死した。しかし佐竹宗家の第14代当主佐竹義治の反撃を受けて義知も討死している。 延徳2年(1490年)には山入家の佐竹義藤・氏義父子が佐竹宗家の第15代当主佐竹義舜を本拠の[[佐竹城]]から追放して占拠し、山入家の勢力は頂点に達した。 しかし永正元年(1504年)に義舜は岩城氏の支援を得て佐竹城を奪還し、山入家の一族は滅ぼされ約100年間に渡って続いた山入の乱は鎮圧された。 #br 山入城は佐竹城の市街地から北西に7キロメートルほどの距離に位置し、山田川に面する比高約90メートルの要害山一帯に築かれた。 山頂から南東に向かって二筋の尾根が伸び、それぞれに削平地が設けられ、堀切や竪堀、土塁によって防御された。主郭には高さ約3メートルの土壇があり、その裏手には高さ約7メートルのほぼ垂直な大堀切など3条の堀切を設けて尾根続きからの攻撃を阻んでいる。 また東側の峰一帯にも、数条の堀切が設けられた程度の簡潔な縄張ではあるが広範囲に遺構があり、山入城の東の防御を担ったと考えられる。 山入城は山入の乱鎮圧とともに廃城になったとされるが、発掘調査によって後世の遺構が発見されており、佐竹城の支城として機能した可能性もある。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|茨城県常陸太田市国安町| |現存状態|土塁、堀など| |城郭構造|山城|
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 常陸源氏の名門・佐竹氏の庶流で、佐竹氏一門のなかでも筆頭として勢力を誇った山入家の本拠で、国安城とも呼ばれる。 山入家は佐竹氏第8代当主佐竹貞義の七男・師義を祖とし、師義は足利尊氏に与して観応の擾乱を戦い討死したとされる。師義の戦功によって子の与義は佐竹氏の所領から久慈東・西郡や依上保などを与えられ、また小田野や高柿などの庶家も分立させ、佐竹宗家をも凌ぐ勢力を持つようになった。 応永14年(1407年)、佐竹宗家が第11代当主佐竹義盛の跡継ぎに関東管領山内上杉憲定の次男・龍保丸を迎えることを決定すると、与義はこれに反発して山入の乱が勃発、[[額田城]]の額田義亮や長倉城の長倉義景など佐竹庶家の多くが与義に同調して佐竹宗家と内紛を繰り広げた。 佐竹氏の跡継ぎ問題は関東公方足利持氏の支援を得た龍保丸が佐竹氏に養子として入り、佐竹義憲(後に義人と改名)として家督を継承した。与義は一時降伏したが、上杉禅秀の乱でも佐竹宗家や持氏に反発し、持氏と室町幕府との関係が悪化すると与義は室町幕府から京都御扶持者に任じられ、関東公方に対する目付役を担った。 与義は応永29年(1422年)に討死するが、その子祐義は室町幕府によって常陸守護に任じられ、これに持氏や義人が反発したため常陸には守護が併存する状況となった。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 山入家はその後も佐竹氏の内紛に介入し続け、山入家の佐竹義知は文明10年(1478年)、佐竹宗家が山入家に対抗するために取り立てた[[久米城]]を攻め、城代の佐竹義武(北義武)が討死した。しかし佐竹宗家の第14代当主佐竹義治の反撃を受けて義知も討死している。 延徳2年(1490年)には山入家の佐竹義藤・氏義父子が佐竹宗家の第15代当主佐竹義舜を本拠の[[佐竹城]]から追放して占拠し、山入家の勢力は頂点に達した。 しかし永正元年(1504年)に義舜は岩城氏の支援を得て佐竹城を奪還し、山入家の一族は滅ぼされ約100年間に渡って続いた山入の乱は鎮圧された。 #br 山入城は佐竹城の市街地から北西に7キロメートルほどの距離に位置し、山田川に面する比高約90メートルの要害山一帯に築かれた。 山頂から南東に向かって二筋の尾根が伸び、それぞれに削平地が設けられ、堀切や竪堀、土塁によって防御された。主郭には高さ約3メートルの土壇があり、その裏手には高さ約7メートルのほぼ垂直な大堀切など3条の堀切を設けて尾根続きからの攻撃を阻んでいる。 また東側の峰一帯にも、数条の堀切が設けられた程度の簡潔な縄張ではあるが広範囲に遺構があり、山入城の東の防御を担ったと考えられる。 山入城は山入の乱鎮圧とともに廃城になったとされるが、発掘調査によって後世の遺構が発見されており、佐竹城の支城として機能した可能性もある。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|茨城県常陸太田市国安町| |現存状態|土塁、堀など| |城郭構造|山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)