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> ブレア城
ブレア城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) スコットランド中部、パースシャー地域のグレン峡谷、ハイランドを貫く主街道沿いの荘園の中に建つ城。 スコットランド貴族アソル公爵(アソール・アーソルとも表記される)の居城で、13世紀に建てられたタワーハウスを起源とする。 アソル公爵は現代のイギリスで唯一私設軍隊を持つことが認められており、城は現在でもアソル・ハイランダーズによって警備されている。 スコットランドで最も早くから一般に公開されていた城であり、その佇まいから現在でも人気の観光スポット。 実は日本皇室ともゆかりが深い城で、昭和と今上二代の天皇が皇太子時代に欧州歴訪した際、ブレア城に迎えて歓待・滞在している。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 築城当時の城主アソル家はスコットランド王を輩出したこともある名門の一族で、その領地は街道を掌握できる要地でもあった。 当主デイヴィッド・ストラスボギー・オブ・アソルが十字軍に従軍している間に、隣の領主カミン家によって領地に勝手にタワーハウスが築かれた。 1269年、帰還したデイヴィッドは王アレグザンダー3世に直訴して奪われた領地を取り戻し、そのタワーハウスの周りに建物を付け加えて城砦化した。 これがブレア城の成り立ちで、現在の城中央部にあるカミンズ・タワーがこの一件のタワーハウスであり、城内で最も古い建物である。 #br 14世紀の初めにアソル家は反乱罪で領地と爵位を剥奪され、その後は主に王室に連なる人間が領主に任じられた。 1457年、ジェームズ2世の異父弟ジョンがアソル伯に叙される。のち16世紀後半に5代伯の娘がタリバーディン伯ウィリアム・マレーと結婚しアソル伯位はマレー家に受け継がれた。現在のアソル公爵マレー家の始まりである。 アソル伯は17世紀の三王国戦争((イングランド内戦がスコットランドとアイルランドに飛び火した一連の戦乱))で国王寄りの姿勢を崩さなかった。そのためにクロムウェル軍による攻撃を受けて城は破壊される。 それでも王党派の姿勢を崩さなかったことから、王政復古ののち報償として侯爵、更に公爵へと昇格した。 破壊された城もそのころまでには修復再建されていたが、しかし名誉革命が起きると一族でジャコバイトとウィリアマイト((ジェームズ2世を支持するジャコバイト・ウィリアム3世を支持するウィリアマイト))の対立が起きた。 1689年にはついにジャコバイト側の一派が主導してブレア城を占拠、同族同士の包囲戦が勃発する。 城の塔を半壊させられながらも籠城を続けていたが、ジャコバイト軍がキリークランキーの戦いで主将を失い撤退したため降伏した。 #br ジャコバイトの反乱が起きるたび一族で意見が割れ、1745年のジャコバイト反乱では再び攻防戦に発展する。このときもやはり一族が攻撃側防御側に分かれた。 荒廃したブレア城は2代アソル公ジョン・マレーによって再建改築され、ジョージ王朝様式の城館に変わった。 のち7代公爵が復古様式の城様居館に改装して現在に至る。第一次大戦では[[グラームズ城]]などと同じく傷病兵の療養施設として使われた。 現在公爵は南アフリカに移住しているが城の所有権は手放しておらず、年に数回は城に滞在するのが通例になっている。 2011年に時計塔から出火して屋根などが一部焼けたが、2012年には修理が完了している。 #br 1921年、日本史上初の皇太子欧州歴訪に際して、英国政府は英国貴族のモデルケースを見せたいと当時宮内大臣だった8代アソル公爵に打診。 アソル公は「日本に詳しくないので満足のいく歓待が出来ない」と一度要請を断るが、首相以下閣僚の説得に折れ裕仁親王をブレア城に迎えた。 裕仁親王はアソル公爵と領民との関係に感銘を受け、『日本の華族富豪がアソル公のようであれば過激思想など起こらないと思う』と述べたという。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|400|c |所在地|スコットランド、パース・アンド・キンロス、ブレア・アソル| |現存状態|現用| |城郭構造|タワーハウス → カントリーハウス| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){アソル・ハイランダーズ(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ ***アソル・ハイランダーズ アソル公爵が保有する私設軍隊(正確にいえば儀礼護衛隊)。アソル公自身を名誉連隊長とする。 18世紀にアソル公爵家が編成した英国陸軍第77連隊を祖とする。現在の連隊は6代公爵ジョージ・マレーが1839年に設立したものが始まり。 1842年と1844年にヴィクトリア女王夫妻がブレア城を訪れたときにその身辺警護に当たった。これがきっかけとなり女王から直々に許可を得た。 当初はイベントごとにメンバーを集めて編成していたが、7代公爵によって常設化された。 城や賓客の警備やパレードだけでなく、ブレア城を経由して[[バルモラル城]]に向かうイギリス王室メンバーの出迎えや警護もその任務とする。 現代のヨーロッパにおいて私設軍を編成することが許可されているのはこの連隊のみである。(民間軍事会社とは意味が違う、いわゆる私兵) アソル公爵がブレア城に滞在するときには閲兵式を行うことが通例となっている。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) スコットランド中部、パースシャー地域のグレン峡谷、ハイランドを貫く主街道沿いの荘園の中に建つ城。 スコットランド貴族アソル公爵(アソール・アーソルとも表記される)の居城で、13世紀に建てられたタワーハウスを起源とする。 アソル公爵は現代のイギリスで唯一私設軍隊を持つことが認められており、城は現在でもアソル・ハイランダーズによって警備されている。 スコットランドで最も早くから一般に公開されていた城であり、その佇まいから現在でも人気の観光スポット。 実は日本皇室ともゆかりが深い城で、昭和と今上二代の天皇が皇太子時代に欧州歴訪した際、ブレア城に迎えて歓待・滞在している。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 築城当時の城主アソル家はスコットランド王を輩出したこともある名門の一族で、その領地は街道を掌握できる要地でもあった。 当主デイヴィッド・ストラスボギー・オブ・アソルが十字軍に従軍している間に、隣の領主カミン家によって領地に勝手にタワーハウスが築かれた。 1269年、帰還したデイヴィッドは王アレグザンダー3世に直訴して奪われた領地を取り戻し、そのタワーハウスの周りに建物を付け加えて城砦化した。 これがブレア城の成り立ちで、現在の城中央部にあるカミンズ・タワーがこの一件のタワーハウスであり、城内で最も古い建物である。 #br 14世紀の初めにアソル家は反乱罪で領地と爵位を剥奪され、その後は主に王室に連なる人間が領主に任じられた。 1457年、ジェームズ2世の異父弟ジョンがアソル伯に叙される。のち16世紀後半に5代伯の娘がタリバーディン伯ウィリアム・マレーと結婚しアソル伯位はマレー家に受け継がれた。現在のアソル公爵マレー家の始まりである。 アソル伯は17世紀の三王国戦争((イングランド内戦がスコットランドとアイルランドに飛び火した一連の戦乱))で国王寄りの姿勢を崩さなかった。そのためにクロムウェル軍による攻撃を受けて城は破壊される。 それでも王党派の姿勢を崩さなかったことから、王政復古ののち報償として侯爵、更に公爵へと昇格した。 破壊された城もそのころまでには修復再建されていたが、しかし名誉革命が起きると一族でジャコバイトとウィリアマイト((ジェームズ2世を支持するジャコバイト・ウィリアム3世を支持するウィリアマイト))の対立が起きた。 1689年にはついにジャコバイト側の一派が主導してブレア城を占拠、同族同士の包囲戦が勃発する。 城の塔を半壊させられながらも籠城を続けていたが、ジャコバイト軍がキリークランキーの戦いで主将を失い撤退したため降伏した。 #br ジャコバイトの反乱が起きるたび一族で意見が割れ、1745年のジャコバイト反乱では再び攻防戦に発展する。このときもやはり一族が攻撃側防御側に分かれた。 荒廃したブレア城は2代アソル公ジョン・マレーによって再建改築され、ジョージ王朝様式の城館に変わった。 のち7代公爵が復古様式の城様居館に改装して現在に至る。第一次大戦では[[グラームズ城]]などと同じく傷病兵の療養施設として使われた。 現在公爵は南アフリカに移住しているが城の所有権は手放しておらず、年に数回は城に滞在するのが通例になっている。 2011年に時計塔から出火して屋根などが一部焼けたが、2012年には修理が完了している。 #br 1921年、日本史上初の皇太子欧州歴訪に際して、英国政府は英国貴族のモデルケースを見せたいと当時宮内大臣だった8代アソル公爵に打診。 アソル公は「日本に詳しくないので満足のいく歓待が出来ない」と一度要請を断るが、首相以下閣僚の説得に折れ裕仁親王をブレア城に迎えた。 裕仁親王はアソル公爵と領民との関係に感銘を受け、『日本の華族富豪がアソル公のようであれば過激思想など起こらないと思う』と述べたという。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|400|c |所在地|スコットランド、パース・アンド・キンロス、ブレア・アソル| |現存状態|現用| |城郭構造|タワーハウス → カントリーハウス| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){アソル・ハイランダーズ(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ ***アソル・ハイランダーズ アソル公爵が保有する私設軍隊(正確にいえば儀礼護衛隊)。アソル公自身を名誉連隊長とする。 18世紀にアソル公爵家が編成した英国陸軍第77連隊を祖とする。現在の連隊は6代公爵ジョージ・マレーが1839年に設立したものが始まり。 1842年と1844年にヴィクトリア女王夫妻がブレア城を訪れたときにその身辺警護に当たった。これがきっかけとなり女王から直々に許可を得た。 当初はイベントごとにメンバーを集めて編成していたが、7代公爵によって常設化された。 城や賓客の警備やパレードだけでなく、ブレア城を経由して[[バルモラル城]]に向かうイギリス王室メンバーの出迎えや警護もその任務とする。 現代のヨーロッパにおいて私設軍を編成することが許可されているのはこの連隊のみである。(民間軍事会社とは意味が違う、いわゆる私兵) アソル公爵がブレア城に滞在するときには閲兵式を行うことが通例となっている。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)