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> チェプストー城
チェプストー城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) ウェールズ南部とイングランドを隔てるワイ川の河岸崖上に建つ。多数の城跡が有る『城の国』ウェールズの中でも最古とされる石造城砦。 城が沿って建つワイ川はイギリス5番目の長さの川で、下流部ではイングランド・ウェールズの境でもある。 チェプストーはその最下流、川と街道が交差する位置にある要衝の町で、[[オッファの防壁]]の南端も近い。 その要衝に、征服王ウィリアム1世からヘレフォード伯に叙された王の側近の一人、ウィリアム・フィッツオズバーンによって1067年から築かれた城。同時期の城達と違い木造の時代を経ることなく最初から石で作られた。 築城当時から14世紀後半まではストリギル城(ウェールズ語で『川の曲がっている場所』を意味する)と呼ばれていた。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ ウィリアム1世はフィッツオズバーンなど側近三人にそれぞれ半自治を認めた辺境領を与え、それぞれ独自にウェールズを攻めさせた。 フィッツオズバーンは最も南部を担当し、その出撃と統治の拠点となる城を多数築いた。その一つがチェプストー城で、他に[[モンマス城]]などがある。 フィッツオズバーンの死後は息子ロジャーが城と爵位を継いだが王への反乱で没収され、改めて[[ペンブルック>ペンブルック城]]伯ド・クレア家に下賜された。 11世紀の築城以来、チェプストー城はグウェント王国などウェールズ南部諸国への侵攻拠点として用いられた。 侵攻の進展とともに統治の拠点として用いられるようになり、チェプストーには河港が開かれ、貿易の拠点としても発展する。 13世紀にはペンブルック伯により拡張を含む二度の大改装と複数の小改装が施され、比較的単純な郭割りから現在見られる完成形へと変化した。 #br しかしその後戦略的な重要性は低下し、15世紀初頭のオワイン・グリンドゥールの反乱でも無用な城攻めを嫌ったオワイン軍は城を避けた。 イングランド内戦では王党派の強いモンマス地方と議会派の強いグロスター地方の間に位置し、2度の攻城戦の末に1648年5月に議会派に攻め落とされた。 チャールズ1世の死刑宣言に署名したヘンリー・マーティンを王政復古後に城の牢に幽閉したことから、牢のあった東角の塔は今もマーティン塔と呼ばれる。 17世紀末期には城の一部が倉庫や工房として使われたが、それ以外は基本的に放置され荒廃していった。 18世紀後半になるとワイ川渓谷流域の古城群は観光や美術文芸のモデルとして名を馳せるようになり、チェプストー城もそのひとつとなり現在に至る。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|ウェールズ、モンマスシャー、チェプストー| |現存状態|城壁、城門塔、主城塔| |城郭構造|連郭式・囲郭式城郭| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造}; }}} #style(class=submenu){{{ ***城郭構造 東から西に向かって下郭、中郭、上郭と高度が上がっていく構造の連郭式。上郭にメインキープを、上郭の西外側にもうひとつ外郭を持つ。 北は川に面した崖であり、残りの三面は堀によって防御されていた。 前述のとおりウェールズの石造城砦としては最初期の物で、建材に用いた石材の一部はチェプストーの南西・カーウェントのローマ遺跡から転用された。 城の主城塔は東西32m、南北12mの長方形の三階建て。11世紀末に完成したもので、フィッツオズバーンの地元であるノルマンディの城に似た様式を持つ。元は二階建てだったが13世紀に増築された。 #br 12世紀末から13世紀初頭にかけてペンブルック伯ウィリアム・マーシャルとその息子たちによって大改装が行われ拡大・近代化される。 今に残る城門塔や内郭の円形城塔はマーシャルによって建造されたもので、彼の十字軍での経験から中東やフランスの築城様式が導入されている。 その後1270年代にも再び改装される。このとき市壁が新しく建設され、城はその一部を形成した。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) ウェールズ南部とイングランドを隔てるワイ川の河岸崖上に建つ。多数の城跡が有る『城の国』ウェールズの中でも最古とされる石造城砦。 城が沿って建つワイ川はイギリス5番目の長さの川で、下流部ではイングランド・ウェールズの境でもある。 チェプストーはその最下流、川と街道が交差する位置にある要衝の町で、[[オッファの防壁]]の南端も近い。 その要衝に、征服王ウィリアム1世からヘレフォード伯に叙された王の側近の一人、ウィリアム・フィッツオズバーンによって1067年から築かれた城。同時期の城達と違い木造の時代を経ることなく最初から石で作られた。 築城当時から14世紀後半まではストリギル城(ウェールズ語で『川の曲がっている場所』を意味する)と呼ばれていた。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ ウィリアム1世はフィッツオズバーンなど側近三人にそれぞれ半自治を認めた辺境領を与え、それぞれ独自にウェールズを攻めさせた。 フィッツオズバーンは最も南部を担当し、その出撃と統治の拠点となる城を多数築いた。その一つがチェプストー城で、他に[[モンマス城]]などがある。 フィッツオズバーンの死後は息子ロジャーが城と爵位を継いだが王への反乱で没収され、改めて[[ペンブルック>ペンブルック城]]伯ド・クレア家に下賜された。 11世紀の築城以来、チェプストー城はグウェント王国などウェールズ南部諸国への侵攻拠点として用いられた。 侵攻の進展とともに統治の拠点として用いられるようになり、チェプストーには河港が開かれ、貿易の拠点としても発展する。 13世紀にはペンブルック伯により拡張を含む二度の大改装と複数の小改装が施され、比較的単純な郭割りから現在見られる完成形へと変化した。 #br しかしその後戦略的な重要性は低下し、15世紀初頭のオワイン・グリンドゥールの反乱でも無用な城攻めを嫌ったオワイン軍は城を避けた。 イングランド内戦では王党派の強いモンマス地方と議会派の強いグロスター地方の間に位置し、2度の攻城戦の末に1648年5月に議会派に攻め落とされた。 チャールズ1世の死刑宣言に署名したヘンリー・マーティンを王政復古後に城の牢に幽閉したことから、牢のあった東角の塔は今もマーティン塔と呼ばれる。 17世紀末期には城の一部が倉庫や工房として使われたが、それ以外は基本的に放置され荒廃していった。 18世紀後半になるとワイ川渓谷流域の古城群は観光や美術文芸のモデルとして名を馳せるようになり、チェプストー城もそのひとつとなり現在に至る。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|ウェールズ、モンマスシャー、チェプストー| |現存状態|城壁、城門塔、主城塔| |城郭構造|連郭式・囲郭式城郭| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造}; }}} #style(class=submenu){{{ ***城郭構造 東から西に向かって下郭、中郭、上郭と高度が上がっていく構造の連郭式。上郭にメインキープを、上郭の西外側にもうひとつ外郭を持つ。 北は川に面した崖であり、残りの三面は堀によって防御されていた。 前述のとおりウェールズの石造城砦としては最初期の物で、建材に用いた石材の一部はチェプストーの南西・カーウェントのローマ遺跡から転用された。 城の主城塔は東西32m、南北12mの長方形の三階建て。11世紀末に完成したもので、フィッツオズバーンの地元であるノルマンディの城に似た様式を持つ。元は二階建てだったが13世紀に増築された。 #br 12世紀末から13世紀初頭にかけてペンブルック伯ウィリアム・マーシャルとその息子たちによって大改装が行われ拡大・近代化される。 今に残る城門塔や内郭の円形城塔はマーシャルによって建造されたもので、彼の十字軍での経験から中東やフランスの築城様式が導入されている。 その後1270年代にも再び改装される。このとき市壁が新しく建設され、城はその一部を形成した。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)