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タンタロン城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) ノース・ベリックから東に3キロメートル、フォース湾の湾口近くで海に突き出した岬の断崖上に三方を崖に囲まれて建つ城。 一時は王に並ぶ権勢を誇ったスコットランドの名族・ダグラス氏族のうち、赤ダグラスと呼ばれたアンガス伯の居城。 初代ダグラス伯ウィリアムによって1350年代に築城され、17世紀まで使われた。赤い砂岩で築かれた背の高い城壁が特徴的な城である。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ ダグラス伯位は初代伯の従兄弟アーチボルドに受け継がれ、タンタロン城はウィリアムの庶子ジョージ(のち初代アンガス伯)が受け継いだ。 ダグラス伯の系統が黒ダグラス、アンガス伯の系統が赤ダグラスと呼ばれ、両ダグラス家は時に王に匹敵する権勢を誇る。 しかし黒ダグラスの8代目ウィリアムは専横が過ぎたためにジェームズ2世によって粛清され、残党が反乱を起こすも鎮圧された。 赤ダグラス家(アンガス伯)はこの鎮圧に助力したことで黒ダグラス家の元領地を恩賞として受け取った。 #br タンタロン城はその赤ダグラス家アンガス伯の主城として改装される。幾度か攻められたが、中でも3回の攻城戦が有名。 5代アンガス伯アーチボルドは1490年にイングランドのヘンリ7世との間で密約を結んだが、これが翌年発覚し国王ジェームズ4世に攻囲された。 5代伯は降伏したが2年後にはジェームズ4世の側近に復帰しており、また城も手ひどいダメージは受けなかった。 同名の孫、6代伯アーチボルドはジェームズ4世の戦死後王妃マーガレットと再婚し、ジェームズ5世を傀儡として国政を左右した。 1528年、成長したジェームズ5世が彼の元から逃亡し親政を開始すると6代伯はタンタロン城に籠城、ジェームズ5世に包囲される。 タンタロン城は20日間にわたって大砲で撃ち続けられたが、6代伯があらかじめ城の防備を増強していたために有効打を与えられず、逆に弾薬が欠乏して王は撤退に追い込まれている。 6代伯は翌年城を明け渡してイングランドに亡命したが、1542年に王が死ぬと再び帰国しタンタロン城に戻り修復される。 #br 1639年、第1次主教戦争が起こる。ダグラス家はカトリック派だったため、城主がエディンバラに行っていた隙に長老派教会軍に占拠される。 王と教会が和解して元に戻るが、イングランド内戦期にはダンバーの戦いに敗れた王党派がタンタロン城を拠点にゲリラ戦を行ったため、1651年にクロムウェルの部下ジョージ・マンク将軍率いる議会派駐留軍による攻撃を受けて破壊された。 その後17世紀末、廃墟となった城はアンガス伯の借財弁済のために売却された。現在はヒストリック・スコットランドが管理している。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|スコットランド、イースト・ロージアン、ノース・ベリック| |現存状態|城壁、城塔、堀、土塁| |城郭構造|囲郭式岬城| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ **城郭構造 岬城の常として岬が丸ごと城地になっており、陸側以外は海沿いの崖。陸側は土塁と外城壁、二重の空堀で防御され、最奥に主郭の城壁がそびえる。 囲郭式城郭としてはスコットランドで最も後の時代に建築されたものだという。 城壁は赤い砂岩で出来ていて高さ15m厚さ4mに達する。中央に主城門塔を、左右の崖際にそれぞれ北東塔と東塔と呼ばれる塔を持つ。 北東の塔は別名ダグラス・タワーとも呼ばれ、円形の塔で地下牢を持つ。東塔はD字形、主城門は矩形の塔と多彩。主城門と外郭は跳ね橋で繋がれていた。 外郭の外城壁はほとんどの部分で現存しないが大手口の部分のみ残っている。17世紀に外堀の更に外側に攻城砲に備えた土の堡塁が築かれた。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) ノース・ベリックから東に3キロメートル、フォース湾の湾口近くで海に突き出した岬の断崖上に三方を崖に囲まれて建つ城。 一時は王に並ぶ権勢を誇ったスコットランドの名族・ダグラス氏族のうち、赤ダグラスと呼ばれたアンガス伯の居城。 初代ダグラス伯ウィリアムによって1350年代に築城され、17世紀まで使われた。赤い砂岩で築かれた背の高い城壁が特徴的な城である。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ ダグラス伯位は初代伯の従兄弟アーチボルドに受け継がれ、タンタロン城はウィリアムの庶子ジョージ(のち初代アンガス伯)が受け継いだ。 ダグラス伯の系統が黒ダグラス、アンガス伯の系統が赤ダグラスと呼ばれ、両ダグラス家は時に王に匹敵する権勢を誇る。 しかし黒ダグラスの8代目ウィリアムは専横が過ぎたためにジェームズ2世によって粛清され、残党が反乱を起こすも鎮圧された。 赤ダグラス家(アンガス伯)はこの鎮圧に助力したことで黒ダグラス家の元領地を恩賞として受け取った。 #br タンタロン城はその赤ダグラス家アンガス伯の主城として改装される。幾度か攻められたが、中でも3回の攻城戦が有名。 5代アンガス伯アーチボルドは1490年にイングランドのヘンリ7世との間で密約を結んだが、これが翌年発覚し国王ジェームズ4世に攻囲された。 5代伯は降伏したが2年後にはジェームズ4世の側近に復帰しており、また城も手ひどいダメージは受けなかった。 同名の孫、6代伯アーチボルドはジェームズ4世の戦死後王妃マーガレットと再婚し、ジェームズ5世を傀儡として国政を左右した。 1528年、成長したジェームズ5世が彼の元から逃亡し親政を開始すると6代伯はタンタロン城に籠城、ジェームズ5世に包囲される。 タンタロン城は20日間にわたって大砲で撃ち続けられたが、6代伯があらかじめ城の防備を増強していたために有効打を与えられず、逆に弾薬が欠乏して王は撤退に追い込まれている。 6代伯は翌年城を明け渡してイングランドに亡命したが、1542年に王が死ぬと再び帰国しタンタロン城に戻り修復される。 #br 1639年、第1次主教戦争が起こる。ダグラス家はカトリック派だったため、城主がエディンバラに行っていた隙に長老派教会軍に占拠される。 王と教会が和解して元に戻るが、イングランド内戦期にはダンバーの戦いに敗れた王党派がタンタロン城を拠点にゲリラ戦を行ったため、1651年にクロムウェルの部下ジョージ・マンク将軍率いる議会派駐留軍による攻撃を受けて破壊された。 その後17世紀末、廃墟となった城はアンガス伯の借財弁済のために売却された。現在はヒストリック・スコットランドが管理している。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|スコットランド、イースト・ロージアン、ノース・ベリック| |現存状態|城壁、城塔、堀、土塁| |城郭構造|囲郭式岬城| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ **城郭構造 岬城の常として岬が丸ごと城地になっており、陸側以外は海沿いの崖。陸側は土塁と外城壁、二重の空堀で防御され、最奥に主郭の城壁がそびえる。 囲郭式城郭としてはスコットランドで最も後の時代に建築されたものだという。 城壁は赤い砂岩で出来ていて高さ15m厚さ4mに達する。中央に主城門塔を、左右の崖際にそれぞれ北東塔と東塔と呼ばれる塔を持つ。 北東の塔は別名ダグラス・タワーとも呼ばれ、円形の塔で地下牢を持つ。東塔はD字形、主城門は矩形の塔と多彩。主城門と外郭は跳ね橋で繋がれていた。 外郭の外城壁はほとんどの部分で現存しないが大手口の部分のみ残っている。17世紀に外堀の更に外側に攻城砲に備えた土の堡塁が築かれた。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)