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> アグアテカ
アグアテカ
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) //編集会議室で決まった基準に基づき、本文が長くなるようなら以下の方法で折り畳んでください。(目安は大体6行以上) //本文はなるべく、ほどほどのところで改行してください。改行は「。」のうしろで。 //(本文を5行以下で入力してください。折り畳みを開始するのは、キリのいいところで結構です) アグアテカはグアテマラの北西部の熱帯雨林低地に位置し、テペシュバトゥン川を見下ろす高さ90メートルの断崖絶壁の上に立地する都市である。 元々は古典期マヤの中規模要塞都市として8世紀前半に創設された。雨が降った後の熱帯雨林は非常に厄介で泥濘に足をとられたり、また泥に足を掬われて転倒する恐れのある。まさに天然の要害であった。 また、崖の平坦部にはスペイン語で「グリエタ」と呼ばれる石灰岩のクレバス(地表の裂け目)がいくつも存在し、最大で幅15メートル、深さ70メートル、長さ860メートルにも及ぶ。この自然の仕掛けによって敵の侵攻を防いでいたようだ。 9世紀に入るとテペシュバトゥンの地域での戦争は激しさを増し、アグアテカ中心部の支配層居住区は幾重もの長大な防御壁に囲まれた。ちょうど弥生時代の環濠集落や中国の都城のような構造であったと考えられる。 #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }} #style(class=submenu){{ 都市の中心部には多分に漏れず王宮があり、大広間には神殿ピラミッド、祭壇、石碑が林立していた。王宮と大広間は舗装提道のサクベで結ばれ、その両端には王族の居住区が並んでいたという。 碑文の解読によれば、7世紀のティカル王朝の幼き王子バフラフ・チャン・カウィールと従者がテペシュバトゥン地域に新王朝を創設したと記される。ティカル王朝は562年にカラクムル王朝との戦争に敗れ長らく低迷期に陥っていた。 ''初代バフラフ・チャン・カウィール王''はカラクムル王朝と政治的同盟を結び、本家のティカル王朝と戦争を繰り返した。初代バフラフ王率いる新王朝はそのただなかで7世紀にドス・ピラス、8世紀にアグアテカを築き勢力を拡大してゆく。 その拡大戦略の中には当然のように政略結婚や近隣地域支配も構想に含まれており、それまでテペシュバトゥン地域の中心都市であったタマリンディートを支配し、その折ドス・ピラスの王女とタマリンディート王は政略結婚させられた。 アグアテカ遺跡の考古学調査などによって王以外の王族や貴族は書記と工芸士(美術品を製作する彫刻家・芸術家でもある)を兼務していたことが分かっている。石碑のような大きな物の場合は高位な彫刻家の名が石碑に複数人刻まれており、共同作業の存在を示した。 兼務の構造は古典期のマヤ社会では当然で、専任の職人を設けないことを意味している。特に支配層に君臨する書記兼工芸士は天文観測、暦の計算、戦争やほかの行政・宗教的な業務と多岐にわたる。 マヤ人は叩き石を用いて樹皮から紙を製造した。絵文書は樹皮製の紙に漆喰を塗りたくり、マヤ文字や図像が描かれた風琴のような折り畳み式の本であったとされる。コンキスタドールであるスペイン人はその本を「悪魔の仕業」と決め付けほとんどを焼き払った。 先スペイン期のマヤ絵文書は奇跡的に4冊現存しており、その一部が古典期のもので、後古典期の初期が書き残した写本である。現存する写本にはおもに宗教儀式、暦、占星術、預言と天文観測などが記されていた。 }} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|テペシュバトゥン盆地、ペテン県、グアテマラ| |現存状態|神殿、王宮跡、石碑| |城郭構造|要塞都市| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) //編集会議室で決まった基準に基づき、本文が長くなるようなら以下の方法で折り畳んでください。(目安は大体6行以上) //本文はなるべく、ほどほどのところで改行してください。改行は「。」のうしろで。 //(本文を5行以下で入力してください。折り畳みを開始するのは、キリのいいところで結構です) アグアテカはグアテマラの北西部の熱帯雨林低地に位置し、テペシュバトゥン川を見下ろす高さ90メートルの断崖絶壁の上に立地する都市である。 元々は古典期マヤの中規模要塞都市として8世紀前半に創設された。雨が降った後の熱帯雨林は非常に厄介で泥濘に足をとられたり、また泥に足を掬われて転倒する恐れのある。まさに天然の要害であった。 また、崖の平坦部にはスペイン語で「グリエタ」と呼ばれる石灰岩のクレバス(地表の裂け目)がいくつも存在し、最大で幅15メートル、深さ70メートル、長さ860メートルにも及ぶ。この自然の仕掛けによって敵の侵攻を防いでいたようだ。 9世紀に入るとテペシュバトゥンの地域での戦争は激しさを増し、アグアテカ中心部の支配層居住区は幾重もの長大な防御壁に囲まれた。ちょうど弥生時代の環濠集落や中国の都城のような構造であったと考えられる。 #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }} #style(class=submenu){{ 都市の中心部には多分に漏れず王宮があり、大広間には神殿ピラミッド、祭壇、石碑が林立していた。王宮と大広間は舗装提道のサクベで結ばれ、その両端には王族の居住区が並んでいたという。 碑文の解読によれば、7世紀のティカル王朝の幼き王子バフラフ・チャン・カウィールと従者がテペシュバトゥン地域に新王朝を創設したと記される。ティカル王朝は562年にカラクムル王朝との戦争に敗れ長らく低迷期に陥っていた。 ''初代バフラフ・チャン・カウィール王''はカラクムル王朝と政治的同盟を結び、本家のティカル王朝と戦争を繰り返した。初代バフラフ王率いる新王朝はそのただなかで7世紀にドス・ピラス、8世紀にアグアテカを築き勢力を拡大してゆく。 その拡大戦略の中には当然のように政略結婚や近隣地域支配も構想に含まれており、それまでテペシュバトゥン地域の中心都市であったタマリンディートを支配し、その折ドス・ピラスの王女とタマリンディート王は政略結婚させられた。 アグアテカ遺跡の考古学調査などによって王以外の王族や貴族は書記と工芸士(美術品を製作する彫刻家・芸術家でもある)を兼務していたことが分かっている。石碑のような大きな物の場合は高位な彫刻家の名が石碑に複数人刻まれており、共同作業の存在を示した。 兼務の構造は古典期のマヤ社会では当然で、専任の職人を設けないことを意味している。特に支配層に君臨する書記兼工芸士は天文観測、暦の計算、戦争やほかの行政・宗教的な業務と多岐にわたる。 マヤ人は叩き石を用いて樹皮から紙を製造した。絵文書は樹皮製の紙に漆喰を塗りたくり、マヤ文字や図像が描かれた風琴のような折り畳み式の本であったとされる。コンキスタドールであるスペイン人はその本を「悪魔の仕業」と決め付けほとんどを焼き払った。 先スペイン期のマヤ絵文書は奇跡的に4冊現存しており、その一部が古典期のもので、後古典期の初期が書き残した写本である。現存する写本にはおもに宗教儀式、暦、占星術、預言と天文観測などが記されていた。 }} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|テペシュバトゥン盆地、ペテン県、グアテマラ| |現存状態|神殿、王宮跡、石碑| |城郭構造|要塞都市| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)