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Comments/旭山砦 の変更点

[[旭山砦]]

-上記が6行ルールから1行だけはみ出たけど、これは折りたたんだ方が宜しいか? -- [[神籠石の人]] &new{2017-06-23 (金) 20:49:38};
--それ以前にちょいと文章校正したいような。いいですか? -- [[城郭史全般の人]] &new{2017-06-23 (金) 22:11:36};
---お、やっちゃって下さい。 -- [[神籠石の人]] &new{2017-06-23 (金) 22:16:22};
--「和議を結んだのち、」以降の文意がいまいちよく分からないですね。「烽火台と推測されているが、そのような機能を持ったとは考えにくく、あくまで背後の守りとして砦を築いたとされる」「和議を結んだあとに砦を築いたために家康の怒りを買った」ということでよろしいでしょうか? あと北条と徳川が天正壬午の乱の和睦に際して揉めたという話は初耳なので出展があると良いかと思います。 -- [[城郭史全般の人]] &new{2017-06-23 (金) 23:39:35};
---見返すと僕の言い回しがくどかったです。烽火台と推測されるがそのような機能をもったとは考えにくいため、あくまでとりで〜和議をむすんだあとに築城して怒られた、で相違ありません。今回参照は『甲信越の名城を歩く』(山下孝司、平山優「編」)を骨組みに和議の後の揉め事の記述を抜き出してます。 -- [[神籠石の人]] &new{2017-06-24 (土) 04:59:10};
---烽火台としての機能を持ったことは否定しにくいですよね。今の記述なら分かります。初耳と言いましたが、普通に平山優『天正壬午の乱』にも「これを知った家康は、和睦をしたばかりなのに今度は敵意を表すとは言語道断と怒り、」とありましたね。家康は、「織田政権」からの援軍を期待して、和睦を破棄したとしてもいけると思ったのかな。 -- [[城郭史全般の人]] &new{2017-06-24 (土) 05:40:19};
---『武徳編年集成』が国文研のデータでサイトにあがっているんで、21巻~25巻さっきざっと見ましたが上記の編集で概ね問題なさそうでした。お手数かけます。お持ちの本にも書いていたんですね。じゃ、すり合わせとしてはOKか。徳川の背後襲撃を恐れるってことは、和議に対してある程度の疑懼があったんでしょうね。ふつう締結後に陣城築くってなさそうですし。 -- [[神籠石の人]] &new{2017-06-24 (土) 06:15:56};
---たしかに、徳川方の余裕の発言とも言えるのか。援軍の期待は可能性あるでしょうね。高天神城のときはアレでしたが。 -- [[神籠石の人]] &new{2017-06-24 (土) 06:18:03};
---徳川もそんなに余裕なかった=砦に気付いてもスルーした方が良かったんじゃと思いましたが、依田信蕃らの奮戦もあって徳川に有利な交渉だったんですね。あと、典拠を書いてもらいましたが、「天正壬午の乱」という言葉の生みの親は平山優氏ですし、出版されているのも『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』の方が早いので、こっちを典拠としておきますね。書いてある内容はほぼ同じです。 -- [[城郭史全般の人]] &new{2017-06-24 (土) 14:50:15};
---家康のかなり強気な発言からも、自分の優勢は揺るぎなし、との自信が見受けられます。主観ですが「砦を野放しにしたら、家康何やってんのって言われそうだから怒っとこう」という沽券の側面もあったのかなって。
誰を送ったかのところまで情報抑えてなかったので助かりました。出典もありがとうございまする。 -- [[神籠石の人]] &new{2017-06-24 (土) 15:09:10};


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