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須賀川城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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須賀川城(すかがわじょう)は福島県須賀川市(陸奥国岩瀬郡)にあった平山城。
戦国期の絵図によると、比高20mの丘陵に築かれた本丸と、東に二の丸、北に三の丸を配し、周囲を水濠で囲った構造をし、城下町もよく整備されていたことがわかる。
元中8年(1391年)奥羽地方が室町幕府から鎌倉府の管轄に移されるも、すでに諸氏には幕府との結びつきが強かったものも多く、鎌倉府による統治は一向に進まなかった。
元中8年(1391年)奥羽地方が室町幕府から[[鎌倉府>鎌倉城]]の管轄に移されるも、すでに諸氏には幕府との結びつきが強かったものも多く、鎌倉府による統治は一向に進まなかった。
それを打開する目的で、応永6年(1399年)鎌倉公方足利満兼は弟の満直(篠川公方)、満貞(稲付公方)を陸奥に遣わし、これに随行した二階堂行続が築城したとされている。
二階堂氏はその事績に多くの混乱が見られるものの、その後の室町幕府と鎌倉府の対立の中で当地に土着、須賀川城を本城に岩瀬郡から安積郡にかけてその勢力を広げた。
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16世紀に入ると、周辺の諸氏と同様に、北から勢力を広げる伊達氏、西から勢力を広げる蘆名氏、南から勢力を広げる佐竹氏の間で揺れ動くようになり、二階堂盛義の代に蘆名氏の攻勢を受け屈服、蘆名氏の旗下に入る。
だが、この際に蘆名氏に人質として出した長男盛隆が天正2年(1574年)蘆名氏を継ぐと、二階堂氏は蘆名氏の全面的な支援を受け、長年対立していた田村氏との抗争を有利に進めることとなった。
天正9年(1581年)に当主二階堂盛義が病死、間もなく子の行親も没するも、盛義の後室大乗院(伊達晴宗長女)が城主となり、家臣須田盛秀を城代として、佐竹氏や蘆名氏の支援の下、北から勢力を広げる伊達政宗(伊達晴宗孫)に対抗した。
しかし、天正12年(1584年)蘆名盛隆が暗殺されると勢力に陰りが見えるようになり、さらに天正17年(1589年)蘆名氏が摺上原の戦いの敗戦から壊滅すると二階堂氏は後ろ盾を失うこととなる。
この情勢の変化に、大乗院らは家中の伊達氏への降伏を主張する声を抑え対決することを選ぶも、家臣の一部が伊達氏に内応し、その手引きを受けた伊達氏の攻撃により須賀川城は落城した。
伊達政宗は同時期に降伏した三芦城主石川昭光(伊達晴宗四男)に須賀川城を与え、関東方面の情勢に備えさせた。
その後、蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行と領主が変わっていった際もそれぞれ家臣が城主として一帯を治めていたが、寛永4年(1627年)加藤嘉明が会津藩主になった頃に廃城となったとされる。
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廃城後城跡地は集落内に取り込まれたため、現在では明確な城の遺構はほとんど残っていない。
本丸跡地には二階堂神社があり、そこに城址の碑や当時の縄張りを示した案内板が立っている程度である。

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|所在地|福島県須賀川市諏訪町|
|現存状態|特に遺構なし|
|城郭構造|平山城|
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