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韮山城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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後北条氏五代百年の繁栄の礎を築いた伊勢宗瑞(北条早雲)が居城とし伊豆支配の拠点となった城で、[[箱根十城>日本100名城#l4a02ca1]]の一つ。
築城年代は明らかでないが、文明年間(1469~1486年)に堀越公方足利政知の家臣・外山豊前守が築いたとされ、政知の子・茶々丸が早雲に攻められ伊豆を追放されたのち、早雲は駿河の興国寺城から韮山城に居城を移し、伊豆を支配する中心として本格的な築城を行った。
築城年代は明らかでないが、文明年間(1469~1486年)に堀越公方足利政知の家臣・外山豊前守が築いたとされ、政知の子・茶々丸が早雲に攻められ伊豆を追放されたのち、早雲は駿河の[[興国寺城]]から韮山城に居城を移し、伊豆を支配する中心として本格的な築城を行った。
早雲は相模を制圧し武蔵南部にも進出したが、その生涯を終えるまで韮山城を居城とし、子の氏綱が当主となるとそれまで在城していた[[小田原城]]に居城が移され、後北条氏による関東支配の拠点となった。

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小田原城に本拠が移ってからも韮山城は後北条氏の重要な支城として機能し、永禄末年には北条氏康の四男・氏規が城主となって伊豆支配の中心とした。
豊臣秀吉が後北条氏家臣で[[沼田城]]代の猪俣邦憲による[[名胡桃城]]占拠を惣無事令違反とし対立が深刻化すると、韮山城は韮山道で連絡する[[山中城]]や足柄峠の[[足柄城]]とともに後北条氏の最前線の城となった。
秀吉による小田原攻めが始まると、韮山城は小田原城の支城として豊臣方の約4万4100人の軍勢を約4000人弱で迎え撃ち、10倍以上の軍勢を相手に約3ヶ月間持ちこたえた。
後北条氏滅亡後には徳川家の譜代内藤信成が城主になり、関ヶ原の戦いで4万石に加増され[[駿府城]]を与えられると韮山城は廃城となった。
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韮山城は本城が築かれた龍城山を中心に、後背の山の頂部に天ヶ岳砦を築き、そこから派生する尾根は堀切で遮断して山麓に4つの砦を配し、総合的に見ると厳重な造りの典型的な平山城である。
これらの山が龍のような形をしていることから、韮山城は別名「龍城」とも呼ばれていた。
韮山城には常時の居城と山麓の砦としての役割があり、天ヶ岳を利用して各砦への移動を図る構造だったと思われる。 
往時は周囲の田園は湿地帯で天然の水堀としていた可能性があり、大軍の展開はしにくかったものと考えられる。
また韮山城の周囲には豊臣方が城攻めの際に築いた陣城跡が残っており、城攻めに際する陣城造りの一例として注目されている。

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|所在地|静岡県伊豆の国市韮山|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|平山城|
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