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陸奥小浜城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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陸奥小浜城は陸奥国塩松地方において下克上と大勢力の間での紆余曲折を経た国人大内氏の居城であった平山城である。
現在の二本松市役所岩代支所の東に広がる丘陵全域にわたる連郭式平山城であり、丘陵の頂上に本丸があり、その四方に曲輪が配されており、要所要所に堀切などが設けられた。
この城の南には宮森城があり、小浜城は下館、宮森城は上館とも呼ばれることから、有事の際には宮森城と連携して防衛を図ったとも考えられている。
城主大内氏は長門の大内氏の一族で大内持世の子孫であると伝えられるが、当の大内氏の記録には該当する人物は無く、一方「姓氏家系大辞典」では菊池氏の流れであるとされるなど、その来歴は全く不明である。
いずれにせよ、14世紀後半には塩松地方を領有した足利一門塩松石橋氏の家宰となっていたことが名取熊野新宮社の記録で確認されており、このころには元となる城が存在した可能性が高いと見られる。
小浜城の名は「福島県史」によれば、大内氏は元々若狭国小浜に在していた、とあるため、これが理由の一端と考えられる。

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大内氏は塩松石橋氏の重臣であったが、塩松氏が伊達氏や蘆名氏、田村氏と行った周辺勢力の中で勢力を失うと、天文19(1550)年大内義綱は主君塩松尚義をその居城[[塩松城]]に幽閉、実権を奪った。
義綱は自分に従わない塩松氏家臣の討伐によって自身の権力基盤を固め、ついには南方の田村氏に内通し、永禄11(1567年)に塩松尚義を追放、下克上に成功した。
その後しばらくは大内氏は田村氏に従いながら安積郡にも勢力を広げるが、義綱の子顕綱の代になると、天正7(1579)年に田村氏からの独立を企図し、定綱と改名するとともに蘆名氏に接近、伊達氏の了解もとりつけ独立に成功する。
さらに天正10(1582)年の伊達氏の[[小斎城]]攻撃の際に伊達輝宗の陣に参上し、伊達氏の傘下に入ることを選んだ。
このように大内氏は近隣の大勢力の間を泳ぎ回りながら所領を維持していたが、伊達氏で輝宗から政宗に代替わりが起こると、政宗の正室が田村氏の娘であることから大内氏の立場が微妙となった。
天正12~13(1584~85)年頃、定綱は一旦は政宗にこれまで同様の忠勤を宣言しながら、その後、情勢を鑑み蘆名氏に鞍替えを行った。
政宗はこのような振る舞いに対し激怒したと言われ、天正13(1585)年に田村氏とともに塩松地方へ出兵、[[小手森城]]において撫で切りを行うなど、瞬く間に塩松地方を制圧した。
定綱は小浜城を放棄して蘆名家を頼り逃亡、塩松地方は伊達氏の勢力下に入り、その後進められた[[二本松城]]攻撃の際には政宗自身が在城するなど、その拠点となった。
その後も伊達領として続いたが、奥州仕置によって一帯が蒲生氏郷の所領となると、その家臣蒲生忠右衛門が城代となり、本丸に石垣が築かれるなど改修が行われたとされている。
上杉氏、再度の蒲生氏の時代にも城代が入り、重要な支城となっていたが、寛永4(1627)年に廃城となった。
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蘆名家を頼った定綱であるが、その後蘆名氏では佐竹氏から義広が養子として入り、結果蘆名家中で宿老と佐竹氏から入った家臣団が対立するなど家中が不穏になり、外様である彼の立場はまたもや微妙なものになっていた。
そんな中、天正16(1588)年2月の大崎合戦に敗北した伊達氏は北方で大きな戦力の損失を生じ、そのため政宗の本隊は最上氏や相馬氏への備えのために身動きが取れなくなり、伊達領南方は孤立状態に陥った。
この情勢は伊達氏と対立していた諸勢力の動きを後押しすることとなり、これを機と見た蘆名氏は同月から翌3月にかけて定綱を先陣として安達郡・安積郡の伊達領へ侵攻を開始した(郡山合戦の始まり)。
定綱は最前線で蘆名氏の攻撃を凌いできた[[苗代田城]]の攻略に成功し、先陣の役割を果たすと後続と合流し、さらに[[郡山城]]や[[本宮城]]などといった阿武隈川西岸の伊達氏の諸城を攻め立てた。
これに対峙した[[二本松城]]主伊達成実は、[[大森城]]主片倉景綱、[[宮森城]]主白石宗実らからの援軍も含めてもわずか600ほどの手勢であったというが、巧みな防戦により蘆名勢の攻勢をうまく凌いでいた。
この状況で、成実は政宗に恨みがあるに違いないであろう定綱(と弟の片平親綱)に伊達氏へ寝返らせるという豪胆な策を考え、政宗から破格の条件の確約を得ると定綱らに誘いをかけた。
定綱は蘆名家中での微妙な立場、田村家臣の[[小手森城]]主石川光昌が相馬氏に内応しているという噂(4月に入り実際に離反)など情勢の不透明さから、政宗も離反に応じた時の約束を反故にはできないと踏み、調略に応じ[[本宮城]]に入った。
4月になり、定綱の離反に気づいた蘆名勢は[[本宮城]]に攻撃を仕掛けたが、定綱は駆けつけた援軍とともこれを追い払った。これにより蘆名氏の攻勢は頓挫し、伊達氏に対する反撃の最大にして最後のチャンスは潰えることとなった。
以降の定綱は一貫して伊達政宗に仕えその信用を得、子孫は仙台藩において一族(仙台藩における階級で一門・一家・準一家に次ぐ4番目の地位)の地位を得、大身として続いた。
定綱は本領復帰とはならなかったものの、陸奥国伊達郡や出羽国長井郡など、伊達本領に近い一帯に所領を与えられた。
以降の定綱は摺上原の戦い、大崎・葛西一揆でも活躍し、政宗が[[岩出山城]]に移った天正19(1591)年には[[前沢城]]主となり、文禄・慶長の役に参加、関ヶ原の戦いのおりには京都の伊達家屋敷の留守居役を務めるなど政宗から非常に信頼されるようになった。
この功績を評され、子の重綱の代からは仙台藩において一族(仙台藩における階級で一門・一家・準一家に次ぐ4番目の地位で要所に配される)の地位を得、その後寛永21(1644)年登米郡西郡に移され、有力家臣の一角として幕末まで代を重ねた。
このように、大勢力の間で翻弄されながらも強かに生き抜き家を長らえさせた大内定綱は、時代の勝者の一人であると言ってもよいであろう。
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現在の小浜城の跡地は本丸跡に蒲生時代とされる石垣と大内氏の子孫により建てられた碑がある他、発掘調査では7棟の建築物の跡が見つかっている。
また、堀切の一部が道路や倉庫の建設地として利用されている。
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|所在地|福島県二本松市小浜字下館|
|現存状態|石垣、堀切|
|城郭構造|連郭式平山城|
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