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長岡城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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戊辰戦争で奥羽越列藩同盟側で参戦し、北越戦争での激しい攻防戦の舞台となったことで知られる、長岡藩の藩庁。
現在の長岡の地を治める蔵王堂藩の堀鶴千代が夭折すると、鶴千代を後見していた堀直寄が[[坂戸藩>坂戸城]]と藩主を兼務し蔵王堂城に入ったが、信濃川東岸に位置する蔵王堂城は河川の流路変更や氾濫で侵食が進んでいたため、直寄は新城の築城を決定した。
直寄は上流に位置する、信濃川沿いの低丘陵地帯である大島庄平潟原に築城を開始し、この地は長岡と呼ばれることとなる。
しかし慶長15年(1610年)に越後福嶋騒動で堀氏宗家の忠俊が改易されて直寄も信濃飯山へ減封となり、越後には松平忠輝が入ったが、忠輝の新たな居城として[[高田城]]が築かれたため長岡城の築城は滞っていた。

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忠輝が元和2年(1616年)に改易されると長岡には再び堀直寄が入って長岡藩を立藩し、長岡城の築城が再開された。
直寄は元和4年(1618年)に[[村上藩>村上城]]に移ったため、築城工事は新たに長岡藩主となった牧野忠成が引き継ぎ完成させた。
西に信濃川が流れ、残る三方にも信濃川水系の川が流れる長岡城は、幾重にも水堀が巡り「八文字の浮島城」と呼ばれた。
また天然の谷地形を取り込んで堀や土塁を設けた、石垣をほとんど用いない土造りの城だった。
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長岡藩牧野氏歴代の居城として幕末に至った長岡城だが、戊辰戦争で新政府軍との戦闘を経験することとなった。
長岡城は戊辰戦争でも最大の激戦の一つとなった北越戦争の舞台となり、ガトリング砲を駆使した長岡藩家老・河井継之助指揮の下で、一度は奪われた長岡城を奪還するなど奮闘するが最終的には落城し、その後廃城となった。

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|所在地|新潟県長岡市|
|現存状態|なし|
|城郭構造|梯郭式平城|

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