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赤館城 の変更点

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東部に阿武隈山地、西部に八溝山地、北部にも東西に走る丘陵と三方を山に囲まれる丘陵上に築かれ、山頂部の曲輪を中心として尾根上と山腹に曲輪群が展開し、大きく本城部の風呂ヶ沢地区、別郭部の鹿子山、外郭部の上台地区に分かれている。
築城年代は建武年間とも文明年間ともされるが不明で、室町時代を通じて赤館氏の居城だった。この頃の赤館城は旧白河街道の東側に位置する鹿子山に小規模な砦が築かれていた程度だった。
戦国時代になると白河結城氏・蘆名氏連合と佐竹氏との抗争の舞台となり、連合側は永禄3年(1560年)に赤館氏を他所に移した上で赤館城を改修した。佐竹氏に対抗するため城の南側は特に厳重な防御が施され、赤館城は境目の城として佐竹氏に対する最前線拠点として重視された。
しかし天正3年(1575年)に佐竹氏の攻撃によって赤館城は落城し、佐竹東家の当主として本家を支え、佐竹氏の陸奥方面での指揮を任された佐竹義久(東義久)が入り、赤館城は佐竹氏の陸奥南部支配のための抑えの城となった。佐竹氏時代の赤館城は北側の防御が重視され、主郭北側の曲輪群は地形を巧みに活用して改修され、長大な二重堀が設けられた。
関ヶ原の戦い後に佐竹氏は出羽に転封され、赤館城は天領となって江戸幕府の代官が支配した後、慶長8年(1603年)に立花宗茂が入り大名として復帰した。その後元和8年(1622年)には丹羽長重が赤館城に入り、寛永2年(1625年)に[[棚倉城]]を築いて居城を移したことで廃城となった。

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|所在地|福島県東白川郡棚倉町|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|山城|

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