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菅谷館 の変更点

*現実の城情報 [#information] 

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源頼朝の忠臣として鎌倉幕府の創立に貢献し、「坂東武士の鑑」と称された有力御家人・畠山重忠の居館。
畠山氏は坂東八平氏の一つ・秩父平氏の一族で、その最盛期を築いた重忠は武蔵大里郡畠山荘から菅谷の地に移り居館を構えた。
菅谷館は比企丘陵のほぼ中央、都幾川左岸の断崖上に位置し、館の東側を鎌倉街道が通る要衝の地に築かれた。
菅谷の地名はスゲが生い茂る原に谷津が入り組んだ地形に由来するとされ、その名の通り菅谷館は東西を河川が形成した谷に守られ、北側は湿地帯、南側は都幾川の断崖と、自然地形を巧みに活かした天然の要害だった。

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元久2年(1205年)、 重忠は鎌倉幕府の執権・北条時政の謀略によって討ち取られ、畠山氏の名跡は足利義純が継承し、のちに室町幕府三管領の一つとなる源姓畠山氏が成立した。
その後の菅谷館の詳細は不明だが、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏が争い、長享元年(1487年)~永正2年(1505年)にかけて関東中の武士を巻き込んで行われた長享の乱において、再び菅谷の地に焦点が当たることとなった。
菅谷が属する比企地域は山内上杉氏の[[鉢形城]]と扇谷上杉氏の[[河越城>川越城]]との境目にあたり、度々合戦が行われたのである。
そのうちの一つ、長享2年(1488年)に行われた須賀谷原の戦いに前後して、『松陰私語』には岩松家純の禅僧・松陰が扇谷上杉方の河越城に対し、山内上杉方は須賀谷の旧城を再興するよう進言したと記され、菅谷館は山内上杉顕定に命じられた太田資康によって再興された。
現在見られる城の姿はこの時に再興されたものが元となっており、これ以降の菅谷館は菅谷城とも称される。
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以後菅谷城は山内・扇谷の両上杉氏の境目の城として改修され、さらに後北条氏が大きく増改築したとされる。
菅谷城は各曲輪の面積が広いことが特徴で、本郭、二ノ郭、三ノ郭、西ノ郭、南郭といった広大な曲輪が設けられ、多数の兵士・軍馬が駐留できる兵站基地として活用された。
本郭は鎌倉時代の菅谷館の中心部分と考えられ、鎌倉武士が居住した単郭式の居館の面影をよくとどめている。
その他の曲輪にも側面攻撃を可能とする横矢掛けや塁線の折れ、枡形虎口が随所に見られ、特に二ノ郭にはそれらに加え馬出が設けられるなど厳重な守りとなっていた。
城域が広大になったことに伴って土塁や堀も大規模なものとなり、特に本郭北側では高さ約4メートルの土塁、幅約17メートル、堀底から土塁頂部まで約9メートルという巨大なものだった。
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やがて関東では両上杉氏の対立という構図から、両上杉氏と古河公方が連携して後北条氏に対抗するという構図へと移行し、主戦場が武蔵東部から武蔵南部・相模へと移ったことで、菅谷城が位置する武蔵北西部では扇谷上杉方の[[武蔵松山城]]と後北条方の河越城が局地的・直線的に睨み合うような関係となった。
さらに天文15年(1546年)の河越城の戦い後に山内上杉氏が上野、ついで越後へと退いたことで、後北条氏は河越城・武蔵松山城・鉢形城のラインで武蔵北部を支配し、そのラインから外れた菅谷城は重要性を失っていった。
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昭和48年(1973年)、菅谷館は「菅谷館跡」として国の史跡に指定され、平成20年(2008年)には武蔵松山城・[[杉山城]]・武蔵小倉城とともに「比企城館跡群」として改めて国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。
昭和48年(1973年)、菅谷館は「菅谷館跡」として国の史跡に指定され、平成20年(2008年)には武蔵松山城・[[杉山城]]・[[武蔵小倉城]]とともに「比企城館跡群」として改めて国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|埼玉県比企郡嵐山町|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|平城|

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