Top > 興国寺城

興国寺城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

関東の覇者として君臨した後北条氏五代百年の礎を築いた家祖、伊勢盛時(北条早雲)の旗揚げの城として知られる。
築城年代は明らかでないが文明年間(1469~1487年)には築かれていたとされ、今川氏の内訌に介入するために下向した早雲が居城とした。
興国寺城は根古屋と青野の境にある愛鷹山に築かれ、南側に浮島ヶ原という湿地帯が広がる天然の要害で、城内を東西に根方街道が通り、城から南に伸びる竹田道が東海道につながる交通の要衝でもあった。
主要部は北から本丸・二の丸・三の丸と直線的に連なり、浮島ヶ原に守られた南側を除く三方は大土塁が囲み、北側には幅20メートル以上の大空堀が設けられた。

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

早雲は興国寺城を拠点に伊豆へと進出し、堀越公方・足利政知の子である茶々丸を討って伊豆を平定し、[[韮山城]]に居城を移した。
その後も興国寺城は継続して使用され、後北条氏・今川氏・武田氏の境目の城として争奪戦の対象となった。
天文14年(1545年)には今川義元・武田信玄・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・足利晴氏が連合して北条氏康を攻め、武蔵で[[河越城の戦い>川越城]]が行われる一方、駿河東部には義元が侵攻し興国寺城は今川氏の手に渡った。
この時期の天文18年(1549年)、義元は興国寺城内にあった興国寺を移転し、城域を拡大している。
#br
永禄11年(1568年)に信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻すると、駿河を追われた今川氏真を擁する北条氏政も駿河へと進出し、興国寺城を奪い返した。
やがて信玄が駿河に再び侵攻し駿府を占領するとその一帯は武田氏の支配下に置かれ、興国寺城は[[深沢城]]とともに対武田氏の最前線となった。
興国寺城には重臣で[[武蔵松山城]]主の垪和氏続が松山衆を率いて在城し、防備を固めている。
[[深沢城]]が信玄に攻略されると[[足柄城]]が興国寺城とともに後北条氏の重要拠点となり、この二城の連携を強化するため平山城が取り立てられた。
#br
元亀2年(1571年)に武田氏は興国寺城を攻めるがこれは城将の垪和氏続が撃退し、その後甲相同盟が結ばれると興国寺城は武田氏の城となり、[[江尻城]]代の穴山梅雪の持ち城となった。
武田氏が滅亡すると興国寺城は徳川氏が所有し、松平清宗や牧野康成を入れ後北条氏への備えとした。
天正18年(1590年)に小田原征伐が行われ家康が関東へと移されると、駿河は豊臣秀吉の家臣・中村一氏に与えられ、興国寺城にはその重臣・河毛重次が入った。
関ヶ原の戦い後は再び徳川氏の所有となり、天野康景が入って興国寺藩が立藩された。
興国寺城は康景によって大改修が行われたが、康景は領内で起こった問題の裁定に不満を持って出奔、興国寺藩は廃藩され興国寺城は廃城となった。
#br
現在、興国寺城は平成7年(1995年)に国の史跡に指定されたこともあって復元・整備が進められており、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|、静岡県沼津市根古屋|
|所在地|静岡県沼津市根古屋|
|現存状態|石垣、土塁、堀など|
|城郭構造|連郭式平山城|

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)


ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS