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聖寿寺館 の変更点

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聖寿寺館は青森県三戸郡南部町小向字聖寿寺にあった平山城で、別称は「本三戸城」。馬淵川と奥州街道が交差する水陸交通の要衝であり、南部氏にとって戦略的な重要拠点だった。
もとは三戸城と呼ばれていたが、南部家の菩提寺である聖寿寺がそばにあり、聖寿寺館と呼ばれるようになった。南部信長から南部晴政までのおよそ200年間、三戸南部氏の居城とされていた。
聖寿寺館が所在した糠部郡は鎌倉幕府の執権北条氏の得宗領であり、その被官だった南部氏は遅くとも鎌倉時代末までには糠部郡に入り、室町時代になって聖寿寺館を中心に糠部郡の大半を支配し、戦国時代には津軽や岩手中部、秋田の鹿角地方へと勢力を拡大していった。
天文8年(1539年)6月、家臣の赤沼備中の放火により聖寿寺館が焼失した後、三戸南部氏は[[三戸城]]を築城し居を移した。


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聖寿寺館は馬淵川へと流れ込む猿辺川と、猿辺川へと流れ込む鱒沢の左岸に築かれ、館の西側は天然の断崖によって守られた。北側と東側は幅10~20メートルの巨大な空堀によって台地から切り離された。
東側の堀底は奥州街道として利用され、南には鹿角街道と奥州街道の分岐点があった。街道を城内に取り込みつつ防御上の工夫も施され、街道が通る東側の堀は二ヶ所で意図的に曲げられ見通しを悪くしている。
館の平場は大きく分けて上段と下段の二面からなり、その間には東西に堀が通っていた。虎口は全部で四ヶ所あり、これに伴う土塁は幅5~7メートル、高さ2~3メートルあり、開口部の幅は5~6メートルと、中世城館の虎口としては大規模なものである。
北西部の斜面には帯曲輪が設けられ、これらを幅10~20メートルの三条の竪堀で遮断することで斜面の横移動を防いだ。南東部にも数段の腰曲輪が見られる。
平成27年(2015年)の発掘調査で、上段平場の大型掘立柱建物跡の面積が824平方メートルと中世時代では東北最大の規模であることがわかった。
また大型掘立柱建物跡からは東北地方では初となる金箔土器も出土しているが、金箔土器は全国的にも類例が少なく、後北条氏の[[八王子城]]、毛利氏の[[吉田郡山城]]、大内氏の[[大内氏館]]、大友氏の大内氏館など、室町時代から戦国時代にかけての大大名の居館等でしか出土していない。
また大型掘立柱建物跡からは東北地方では初となる金箔土器も出土しているが、金箔土器は全国的にも類例が少なく、後北条氏の[[八王子城]]、毛利氏の[[吉田郡山城]]、大内氏の[[大内氏館]]、大友氏の[[大友氏館]]など、室町時代から戦国時代にかけての大大名の居館等でしか出土していない。
居館としては技巧的な構造は見当たらず、周辺に屋敷が散在しつつ全体として一つにまとまるような、[[根城]]や[[浪岡城]]のような群郭式の居館だったと考えられる。
聖寿寺館からは南に川を挟んで馬場館、西に小向館、東に佐藤館と平良ヶ崎城があり、これらが連携して守りを固めていたとも考えられ、これらの城館の全てを含めて本三戸城と見る向きもある。
平成30年(2018年)10月2日、聖寿寺館から「犬形土製品」と呼ばれる犬の土人形が見つかり、これまで各地の有力大名の屋敷跡などから見つかっていたが、聖寿寺館での発見はその最北端となる。
これは近畿地方の有力者から贈られたものとみられ、南部氏の権威や交流を物語る貴重な資料だという。
南部町によると、大きさは高さ3.5センチメートル、全長6.6センチメートルで、16世紀前半に近畿地方の職人が手作りし、当主の妻などに向けた安産祈願のお守りと推測され、文献で記述されることが少ない戦国時代の女性の暮らしを考える上でも、手掛かりになるとしている。

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|所在地| 青森県三戸郡南部町|
|現存状態|掘立柱建物跡4棟、竪穴建物跡38棟、堀跡 |
|城郭構造|平山城|
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