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美作岩屋城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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美作岩屋城は標高483メートルの岩屋山に築かれた美作国内では最大規模の山城であり、長年にわたり様々な勢力の間で争奪の場となった。
岩屋山は西を岩屋川、東を明谷川が流れ、北は「落し雪隠」と呼ばれる崖になっている切り立った天然の要害となっており、水の手にも困らないため長期の籠城戦が容易となっている。
築城は嘉吉元年(1441年)に美作守護山名教清によるものであるが、その後の争奪の中で徐々に拡張され、最終的に12本に及ぶ堅堀や20以上の郭が追加され、美作国有数の規模を誇る山城へと変貌していった。
築城は嘉吉元年(1441年)に美作守護山名教清によるものであるが、その後の争奪の中で徐々に拡張され、最終的に12本に及ぶ堅堀や20以上の郭が追加され、美作有数の規模を誇る山城へと変貌していった。
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応仁の乱が始まると加賀半国守護であった赤松政則は山名氏の主力が京に出払っている隙をついて本貫地である播磨を奪還、さらに嘉吉の乱以前の所領であった備前・美作にも兵を出した。
美作に派遣された赤松家臣中村五郎左衛門は3年を費やしながらも美作を制圧、備前と共に赤松氏は旧領の回復に成功、美作岩屋城も赤松領となり赤松氏譜代の家臣が入れ替わり城代となった。
永正16年(1519年)に赤松家重臣浦上村宗が播磨守護赤松義村との対立から備前で反旗を翻すと、翌年には美作守護代であった中村則久がこれに同調し美作岩屋城を奪取し居城とした。
赤松義村はこれに対して美作岩屋城攻めを行うが、則久は200日以上の籠城の末に浦上村宗の援軍とともにこれを追い払うことに成功した。
しかし浦上村宗が死去し、西から尼子氏が美作に勢力を伸ばしはじめると、中村氏は尼子氏に協力する国人達との対立によって苦境に立たされ、最終的に天文13年(1544年)に尼子国久に降伏した。
その後も中村氏が尼子家臣芦田秀家を目付につけられる形で城主であったが、尼子氏の勢力が後退し始めると、独立の野心を抱いた芦田秀家は中村則治を殺害し、美作岩屋城を乗っ取った。
その子芦田正家は天正2年(1574年)に浦上氏から独立した宇喜多直家の家臣花房職秀らの奇襲を受けて当地を逐われ、宇喜多家臣浜口家職が城主となった。
宇喜多氏が毛利氏と結んでいた間は美作岩屋城も安全であったが、天正8年(1580年)に宇喜多氏が織田方に転じると、一転毛利氏の攻撃対象となり、毛利氏旗下の葛下城主中村頼宗が嵐の中、落し雪隠から攻撃するという奇襲策によって落城させた。
頼宗はこの功により美作岩屋城を与えられ、奪還を狙う宇喜多氏の攻撃を跳ね返し続けた。
天正11年(1583年)の羽柴秀吉と毛利輝元の和睦によって、当地は宇喜多領と定められたが、頼宗は明け渡しを拒み籠城、宇喜多氏はこれを攻めるもやはり落とすことはできなかった。
最終的に足利義昭の仲介で和睦となり、頼宗は宇喜多氏が包囲を解くと美作岩屋城を退去し、かわって宇喜多家臣長船貞親が入った。
このように100年近くにわたり様々な勢力の争奪の場となった美作岩屋城であったが、天正18年(1590年)に一帯の山火事によって本丸が焼け落ちるとそのまま再建されることなく廃城となってしまった。
これは堅固な山城であったが故に、統治に不便な時代遅れの城となってしまったのが大きな要因であった。
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城跡はよく整備されており、砦として使われた郭や堀切、畝状竪堀、土塁等多くの遺構が残されている。
また、周囲には天正12年(1584年)の宇喜多氏の美作岩屋城攻めの際に築かれた陣城も多く残っている。
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|所在地|岡山県津山市中北上|
|現存状態|堀切、郭、畝状竪堀、土塁等|
|城郭構造|山城|
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