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箕冠城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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上杉謙信の下で財政担当である段銭方などの重職を担った重臣・大熊朝秀の居城。標高242メートルの箕冠山に築かれ、越後と信濃を結ぶ関田峠や久々野峠などの峠道を押さえる要衝の城で、北西は謙信の居城である[[春日山城]]、西は春日山城の重要支城である[[鮫ヶ尾城]]を眺望できる。
箕冠山の山頂部に本丸が置かれ、その南側に二の丸と三の丸を配置し、周囲にはおびただしい数の腰曲輪が階段状に設けられ、要所には土塁や堀切、横堀、竪堀、虎口、枡形、馬出、井戸などが設けられた。
全体として大きな山城ではないものの、馬出曲輪・横矢土塁・横堀が特に注目される遺構となっている。馬出曲輪は本丸の東側に設けられた台形状の角馬出で、越後の山城では少数しか確認されていない。
横矢土塁は二の丸の南東に配置された三の丸の、二の丸側を除く三方に設けられ、ところどころが屈折して横矢掛けを可能としている。
横堀は本丸・二の丸間と、三の丸の南側に配置されら腰曲輪の切岸付け根、そして腰曲輪の周囲の三ヶ所に見られる。いずれも外側に土塁が築かれ、堀底には畝がある。主郭部の南側は緩やかな斜面が山麓へ下っていることから、土塁や横堀を徹底的に配置し敵兵の城内への侵入を阻もうとしたと考えられる。

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箕冠城の築城年代や、大熊氏がいつから箕冠城を居城としたかは明らかになっていないが、戦国時代に大熊政秀が越後守護上杉氏の段銭方として上杉政権を支え、政秀は越後守護代長尾為景にも仕えるなど、対立する上杉氏と長尾氏との間を巧みに立ち回った。
政秀の子・朝秀は長尾景虎(後の上杉謙信)の家督相続を支持して信頼を得、父と同じく段銭方を務め、奉行人として政権の中枢にあった。
天文22年(1553年)、上野家成と下平修理亮との領地争いが起こると修理亮は朝秀を頼り、家成は朝秀と同じく上杉氏の重臣だった[[栃尾城]]主の本庄実乃を頼り、上杉家中を二分する対立が激化した。
このような状況で弘治2年(1556年)6月に謙信が出家を宣言して高野山へ向かうと、8月に朝秀は武田信玄と通じて謙信から離反した。朝秀は箕冠城を捨てて越中に入り、そこから越後に侵攻したが出家を撤回し越後に復帰した謙信に敗れ、甲斐に逃れ信玄に仕えた。
この時に箕冠城で戦いがあったかどうかは不明で、土塁や横堀の遺構が天正年間の特徴を示していることから、大熊氏が去った後も箕冠城は上杉氏の城として用いられていたと考えられる。

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|所在地|新潟県上越市板倉区山部|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|山城|

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