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石神城 の変更点

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常陸源氏の名門・佐竹氏に仕えた佐竹四天王の一つである小野崎氏の分家・石神小野崎氏の居城。
『尊卑分脈』や『小野崎系図』の系図などによると、小野崎氏は藤原秀郷の玄孫で、[[常陸太田城]]を築いた藤原通延を初代とし、その孫・通盛が小野崎城を築いて小野崎姓を名乗り、建徳元年(1370年)の通胤の代で嫡男の通春が宗家を継いで山尾城を居城とし、次男の通房が石神小野崎氏を、三男の通業が額田小野崎氏を名乗ったという。
『尊卑分脈』や『小野崎系図』の系図などによると、小野崎氏は藤原秀郷の玄孫で、[[佐竹城]]を築いた藤原通延を初代とし、その孫・通盛が小野崎城を築いて小野崎姓を名乗り、建徳元年(1370年)の通胤の代で嫡男の通春が宗家を継いで山尾城を居城とし、次男の通房が石神小野崎氏を、三男の通業が額田小野崎氏を名乗ったという。
石神小野崎氏の始まりには諸説あるが、『阿呆文書』には15世紀前半に「石上城」の名が登場しており、通房の頃に石神姓を名乗ったのが自然と考えられる。
石神城は那珂台地から北東に伸びる標高約20メートルの舌状台地に築かれ、北側と南側が谷で区切られ、北東には低湿地が広がり、東端は蛇行する久慈川で守られた台地を土塁と堀で遮断するという天然の要害だった。

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この時代の城郭について、14世紀には「内城」「外城」からなる二重方形区画の城郭が主流だったが、やがて「実城」「中城」「外城」からなる戦国時代の城郭へと移行していった。
石神城の主要部分は「遠見城」「御城」「城之内」という3つの曲輪からなり、このうち遠見城は御城から切り離されて成立した曲輪とされ、遠見城と御城が合わせて「実城」にあたり、城之内は「中城」、そしてこれらを土塁や堀で囲い込んで形成された空間が「外城」にあたる。
このように石神城は14世紀の城郭構造を残しつつも、戦国時代の城郭へと変遷する過渡期の特徴を示す城として考えられている。

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|所在地|茨城県那珂郡東海村石神|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|平山城|

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