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熊川倭城 の変更点

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文禄2年(1592年)、文禄の役に際して、標高184メートルの南山(ナムサン)の山頂に築かれた倭城であり、主に上杉景勝が築城を担当した。
加藤清正の西生浦倭城と並んで最大規模の倭城とも言われ、頂上の曲輪を石塁で区切ったことは城郭研究家の中井均氏により「曲輪の総虎口化」と評されている。
文禄3年(1593年)にはキリシタン大名の小西行長の要請によりスペイン人のグレゴリオ・デ・セスペデス神父と、日本人のファンカン・レオン修道士が招かれ、キリスト教の布教活動が許された。
セスペデス神父の書簡によれば、「巨大な城壁、塔、砦が見事に構築され、城の麓に、すべての高級の武士、アゴスチイノ(小西行長) とその幕僚、ならびに連合軍の兵士らが陣取っています。彼らは皆、よく建てられた広い家屋に住んでおり、武将の家屋は石垣で囲まれております」という。

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|所在地|慶尚南道昌原市鎮海区南門洞南山, 大韓民国|
|現存状態|石垣、天守台、虎口、登り石垣、堀|
|城郭構造|山城|
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