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津川城 の変更点

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津川城は阿賀町中心部を流れる阿賀野川南岸に突き出した標高191mの細長い山塊麒麟山の先端部に築かれた会津の蘆名氏の越後における拠点となった平山城である。山の名をとった麒麟山城や狐戻城とも呼ばれることがある。
阿賀野川とその支流常浪川を天然の堀とし、さらには切り立った山塊を活かした防御機構が取り込まれており、平山城でありながら山城に近い堅牢性も備えていた。
治承・寿永の乱後、会津には相模三浦氏の一族である佐原氏が入り、子孫は会津各地に土着、のちの蘆名家(佐原氏嫡流)勢力圏の基盤が構築されていった。
その佐原一族の一人である金上盛弘は阿賀野川を下り越後国蒲原郡に進出、建長4年(1252年)津川城を築いた。
その佐原一族の一人である金上盛弘は阿賀野川を下り越後国蒲原郡に進出、建長4年(1252年)に津川城を築いた。
以降金上氏は津川城主として蘆名家臣の一翼を担い、当地では阿賀野川の水運などをおさえた他、会津の津川口の守りの要となっていった。

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蘆名氏は津川城を拠点に越後に勢力を伸ばそうとするなど勢力的に活動しており、結果、越後の諸勢力とも一定の繋がりをもっていた。
上杉謙信の死後の天正6年(1578年)に御館の乱が勃発すると、時の津川城主金上盛備は蘆名盛氏の命により蒲原郡に侵攻、上杉景虎の支援を行っている。
さらに、御館の乱の戦功への不満が元で天正9年(1581年)に新発田重家が上杉景勝に反旗を翻すと、その後ろ盾となっていた蘆名盛隆は上杉景勝には不介入と言いながらも金上盛備に命じ、津川より物資の補給を行わせ重家を公然と支援した。
さらに、御館の乱の戦功への不満が元で天正9年(1581年)に[[新発田城]]主の新発田重家が上杉景勝に反旗を翻すと、その後ろ盾となっていた蘆名盛隆は上杉景勝には不介入と言いながらも金上盛備に命じ、津川より物資の補給を行わせ重家を公然と支援した。
しかし、頑強に抵抗していた新発田重家も伊達家の支援を失い、さらには新潟城などを失うなどにより津川以外の補給線を失うと、藤田信吉によって補給線の要であった赤谷城が落とされてしまい、蘆名氏の越後政策は破綻することとなった。
その後、金上盛備は天正17年(1589年)の摺上原の戦いで討ち死にし、その子盛実は伊達氏に降伏、その際に津川城は没収されかわって伊達家臣原田宗時が入った。
さらに奥州仕置で伊達氏が当地を失い、蒲生氏郷を経て上杉景勝が会津に転封されると藤田信吉が城主となったが、慶長5年(1600年)には家中対立によって信吉は出奔、これをきっかけとして上杉討伐、ひいては関ヶ原の合戦へと歴史は進んでいくこととなった。
その後も津川は越後国蒲原郡の中にありながらも一貫して会津藩領であり続けたが、津川城そのものは寛永4年(1627年)に加藤嘉明が会津藩主となった時に幕命により廃城となっている。
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かつての城主であった金上氏は盛実が伊達氏に従い、その後も様々な転変はあったものの最終的には召出の家格をもつ有力藩士となった。また盛実の兄弟は会津に残ったとされ、その子孫には白虎隊詩で知られる佐原盛純がいる。
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城跡は現在は麒麟山公園となっており、石積みの混じった土塁や堅堀、石垣など多数の遺構が現在に残されている。
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|所在地|新潟県東蒲原郡阿賀町津川|
|現存状態|土塁、堀切、石垣|
|城郭構造|平山城|
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