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比叡山延暦寺 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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単に「延暦寺」と呼ぶこともあるが、延暦寺とは点在する150ほどの堂塔の総称であり、標高848メートルの比叡山全域を境内としている。
山腹の平坦面が城郭としての遺構であり、四段ある巨大な郭の外郭には土塁が巡らされている。
竪堀や切岸の痕跡もある他、最下部の郭中央には仕切り土塁も認められる本格的な城塞であった。
比叡山は『古事記』にも名が見られるが、延暦寺の歴史も古く、平安時代初期に日本天台宗の本山寺院として最澄により開かれた。
ただし、大乗戒壇の設立は最澄の死後に認められ、「延暦寺」の勅額を授かったのも最澄の死の翌年のことであった。
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やがて延暦寺は円仁派と円珍派に分裂するとともに武装化し、白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師(=延暦寺の僧兵)。これぞ朕が心にままならぬもの」と恐れるほどの武力を持った。
延久2年(1070年)には、朝廷権力からの「不入権」を承認され、一種の独立国とも言える寺社勢力へと発展していった。
こうした情勢は武家政権をも脅かしたが、後白河法皇に延暦寺攻撃を命じられた平清盛も延暦寺を恐れて衝突を回避している。
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こうした中、室町幕府6代将軍・足利義教は歴史上初めて延暦寺を攻撃し制圧したが、義教の死後に再び武装化している。
明応8年(1499年)には、細川勝元(応仁の乱における東軍総大将)の子で、明応の政変を主導した政元により、山上の主要伽藍が悉く焼き討ちされている。
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元亀2年(1571年)には、織田信長による再三の警告を無視したがために攻撃され、明智光秀が主導する作戦により数千人が殺されたという。
一般にはこの事件のことを比叡山焼き討ちと言うが、近年の発掘調査によれば全山焼き討ちが行なわれたというのは誇張であると考えられる。
その後、豊臣秀吉や徳川家、南光坊天海の尽力により再興されると、明治初期の神仏分離や廃仏毀釈を乗り越え、「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されている。
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平成30年(2018年)3月24日には、[[公式Twitterアカウント>https://twitter.com/enryakuji_hiei]]を開設。早々に織田信長を名乗るアカウントからリプライされるなどして話題となった。

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|所在地|滋賀県大津市坂本本町|
|現存状態|郭、土塁、竪堀、切岸|
|城郭構造|寺院|
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