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比叡尾山城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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比叡尾山城(ひえびやまじょう)は備後の国人で三次盆地を拠点とした三吉氏の居城である。
三次盆地を見下ろせる標高420mの山に築かれた山城で、麓から段階的に石垣や土塁を使って区切った郭や、堅堀・堀切などが入り交じった構造をしている。
三吉氏は近江源氏佐々木氏の一族とも藤原鎌足後裔とも言われているが、現在では鎌倉初期に奥州攻めの戦功で佐々木氏一族の佐々木秀綱が同地の地頭職を得たが、承久の乱後藤原行成の子兼範がそれに代わった可能性が考えられている。
いずれにせよ、比叡尾山城は三吉氏の最初期に拠点として築かれたという点は共通しており、備後国においてとりわけ長い歴史を持つ城郭であるとされている。

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三吉氏は南北朝期には主に宮方として活動していたとみられ、足利直冬に従うなどの活動が確認されており、三次盆地からその北方にかけてを勢力圏としていった。
戦国期に入ると、備後は北の出雲から勢力を伸ばした尼子氏と西の周防から安芸を通じて勢力を伸ばした大内氏の争奪の場となり、三吉氏も否応なしにこれに巻き込まれれることとなった。
天文9年(1540年)の尼子氏による毛利氏の[[吉田郡山城]]攻めでは、毛利氏に協力する宍戸氏の祝屋城攻めなどに三吉氏の名前が見られ、この頃の三吉氏は尼子氏に従っていたことがわかる。
しかし、天文13年(1544年)には尼子氏に比叡尾山城を攻撃された(布野崩れ)ことが記録されており、この間に大内氏方に転じたことがわかる。
天文20年(1551年)に大寧寺の変が起こり、安芸・備後における毛利氏の勢力が広がりを見せると、時の当主三吉隆亮は婚姻関係もある毛利氏に従った。
三吉氏は一定の自立性を保ちながらも毛利家臣として活動を続けると、天正19年(1591年)には三吉広高が比叡尾山城にかわり新たに比熊山城を築き移った。この際に比叡尾山城は廃城となっている。
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三吉広高は毛利氏の防長移封に付き従わず浪人し、その後広島藩主となった浅野氏に付き従い三次に戻ってきた際には、落ちぶれた広高を哀れんだかつての領民が土産物などを持参し彼のもとに参上したという。
広高の子孫は広島藩士として続き、後には一族からは長州に移り長州藩士となった家も出ており、幕末期に寺田屋事件などに関わり坂本龍馬と交友があった長州藩士三吉慎蔵はこの家に養子に入った人物である。
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城跡には石垣や土塁などが残されており、近年整備を受けたことで、館跡とみられる平地部などがはっきり見て取れるようになったそうである。
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|所在地|広島県三次市畠敷町|
|現存状態|石垣、堀切、土塁、井戸など|
|城郭構造|山城|
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**布野崩れ [#a652ce69]

天文13年(1544年)に尼子氏は大内氏に転じていた三吉氏の比叡尾山城を攻撃した。
天文13年(1544年)に尼子氏は尼子国久ら新宮党を主力とする7000騎を備後に進出させ大内氏に転じていた三吉氏の比叡尾山城を攻撃した。
これは前年の大内氏による[[月山富田城]]攻め失敗を受けた尼子氏の備後方面における反攻の中の1つとされ、最終的には毛利氏の[[吉田郡山城]]攻撃も想定されていたとも言われている。
これに対して毛利氏は1000騎の援軍を三吉氏の元へ送ったものの、それを見越して備えていた尼子氏の軍勢に散々に打ち破られてしまった。これを布野崩れという。
だが、翌日三吉勢500騎が比叡尾山城から打って出て奇襲をかけると、尼子勢は一転大混乱に陥り、総崩れとなって出雲に逃げ帰ることとなってしまったという。
これに対して毛利氏は1000騎の援軍を三吉氏の元へ送り攻撃をしかけたものの新宮党の軍勢に散々に打ち破られてしまった。毛利氏の惨敗のほどから史料ではこれを布野崩れと呼んだ。
だが、翌日三吉勢500騎が比叡尾山城から打って出て奇襲をかけると、尼子勢は一転大混乱に陥り、総崩れとなって出雲に逃げ帰ってしまったという。
これは、尼子勢が毛利勢を打ち破ったことで残るは小規模な城兵のみと油断していたところをつかれてしまったのが原因とされ、このちょっとした油断1つにより尼子氏は備後方面での反攻が頓挫するという高い代償を支払うはめとなった。
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