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本佐倉城 の変更点

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関東の名族、戦国大名千葉氏最後の居城。千葉氏は源頼朝に従った千葉介常胤以来、下総国守護としての地位を保持していた。
しかし享徳の乱(1455~1483年)に関連して内紛が起きて傍系の馬加千葉氏の馬加康胤が千葉氏宗家を滅ぼし、古河公方と結んで下総を平定した。
千葉氏嫡流の実胤・自胤兄弟は市河城([[国府台城]]に比定される)から武蔵に逃れ、扇谷上杉の庇護を受けて下総回復を目指すことになる。
またこの頃安房国では里見氏、上総国では武田氏(共に古河公方方)が勢力を拡大し、江戸湾を挟んで両上杉家とにらみ合う形となった。
千葉氏嫡流の実胤・自胤兄弟は市河城([[国府台城]]に比定される)から武蔵に逃れ、扇谷上杉家の庇護を受けて下総回復を目指すことになる。
またこの頃安房国では里見氏、上総国では武田氏(共に古河公方方)が勢力を拡大し、江戸湾を挟んで扇谷・山内両上杉家とにらみ合う形となった。
そんな情勢下で、馬加千葉氏出身(異説有り)の岩橋輔胤が文明年間(1469~1486年)に千葉家当主を名乗り、内陸の佐倉に本拠地を移して本佐倉城を築いたとされる。

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城は印旛沼に連なる湿地帯に面して三方を湿地帯に囲まれた岬状台地(通称将門山)の上に築かれ、陸側の出城と相互に支援し合えた。
本郭に達するには更に二重の大型空堀と複数の曲輪を越えていく必要がある。この地割が現在も開発の手を逃れてよく残っている。
ただし後の改修で追加されたものもあると考えられ、地元自治体による調査研究が行われており、城跡の解説は随時更新されているとのこと。
ともあれ築城以後本佐倉城は千葉氏九代の本拠として下総国の政治・経済・文化の中心となり、下総国最大規模の城郭となる。
千葉親胤の時代からより東側に[[佐倉城]](新城)を築こうとするが、暗殺・内紛・二転三転する北条氏との関係等で果たせなかった。
結果的に戦国時代末期に北条氏に取り込まれる形となり、天正18(1590)年小田原征伐で滅亡するまで本佐倉城を居城とし続けることになった。
なお、武蔵に逃れた千葉氏旧嫡流(武蔵千葉氏・[[石浜城]]主など)も北条に服属し、一族から養子(北条氏繁の息子直胤)を迎えていた。
結果的に戦国時代末期に北条氏に取り込まれる形となり、天正18年(1590年)の小田原征伐で滅亡するまで本佐倉城を居城とし続けることになった。
なお、武蔵に逃れた千葉氏旧嫡流(武蔵千葉氏・[[石浜城]]主など)も北条氏に服属し、一族から養子(北条氏繁の息子直胤)を迎えていた。
その後徳川家康によって廃城となり、後に佐倉藩の藩庁として一時再利用された。しかし元和元年(1615年)に藩庁が佐倉城へと移転され、また一国一城令が発布されたことによって廃城となった。
1998年に国の史跡に指定(千葉県下唯一)され、2017年には続日本100名城に選定されている。
平成10年(1998年)に国の史跡に指定(千葉県下唯一)され、平成29年(2017年)には続日本100名城に選定されている。

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|所在地|千葉県印旛郡酒々井町本佐倉・佐倉市大佐倉|
|現存状態|堀、土塁、曲輪跡など|
|城郭構造|連郭式平山城|
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