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星崎城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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舒明天皇の時代に隕石が墜ちたため、あるいは承平5年(935年)に平将門の乱に際して熱田神宮で平将門調伏の祈願が行われると、星宮社で七星が耀いたので「星崎」の名が付いたとされる地の城。
別の説では元久2年(1205年)に入江に明星が降りたためとも言われているが、いずれにせよ寛永9年(1632年)に堕ちたという記録上日本で2番目に古い隕石「南野隕石」が確実な記録とされ、星にまつわる地であることは間違いない。
星崎城は、治承年間(1177年~1181年)、承久の乱で京方の武将として活躍した山田重忠が築城し清和源氏満政流の山田氏の居城となった。あるいは、尾張小幡城主・岡田重篤の築城ともいう。
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山田氏が他の地に移り住むと一時廃城となったのち、鳴海の土豪・花井右衛門兵衛が居城としたが、鳴海城主・山口教継が織田から今川に寝返ると織田信長に没収された。
山田氏が他の地に移り住むと一時廃城となったのち、鳴海の土豪・花井右衛門兵衛が居城としたが、[[鳴海>鳴海城]]城主・山口教継が織田から今川に寝返ると織田信長に没収された。
代わって小豆坂七本槍の一人・岡田重善(重能、直教とも)が入城したが天正11年(1583年)に没し、嫡男の重孝が家督を継いだ。
翌年、重孝が[[松ヶ島城]]主・津川義冬、苅安賀城主・浅井長時とともに三家老として織田信雄に加担するも羽柴秀吉との内通を疑われ[[伊勢長島城]]で謀殺されたのを発端に小牧・長久手の戦いが開戦。
翌年、重孝が[[松ヶ島>松ヶ島城]]城主・津川義冬、苅安賀城主・浅井長時とともに三家老として織田信雄に加担するも羽柴秀吉との内通を疑われ[[伊勢長島城]]で謀殺されたのを発端に小牧・長久手の戦いが開戦。
この三家老殺害事件は信雄が秀吉の策略にまんまと乗せられたとも評されるが、徳川家康も即座に信雄と連携しており了承済みのことだったとも言われる。
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その後、重孝の弟・岡田善同は星崎城に籠城したが信雄に攻められ降伏し、寺辺城主・山口重勝が領することとなった。
重勝が蟹江城合戦で活躍した養子の山口重政に家督を譲って隠居したのち、天正16年(1588年)に重政が伊勢の茂福城に移封されると、星崎城は廃城となった。
星崎城は笠寺台地の南端に築かれ二重堀が巡らされていたというが、現在跡地は名古屋市立笠寺小学校の敷地となっている。
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余談だが、善同の部下が[[名古屋城]]築城の際に作った「雉子麺」が名古屋名物きしめんの由来であるという説がある。

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|所在地|名古屋市南区本星崎町|
|現存状態|井戸|
|城郭構造|平城|
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