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御坂城 の変更点

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標高約1570メートル、比高約630メートルもの高所に築かれた城で、甲斐・駿河・相模を結ぶ鎌倉往還の要衝である御坂峠を押さえる。
武田氏時代には郡内と甲府との連絡のための烽火場があったとされるが詳細は不明で、現在の遺構は後北条氏の改修によるものとなっている。
天正10年(1582年)に織田信長が本能寺の変で横死すると旧武田氏領では北条氏政・氏直父子と徳川家康が争奪戦を繰り広げる天正壬午の乱が勃発した。
相模から甲斐に侵攻した後北条氏は郡内を制圧し、[[御坂城]]を前線の城として修築し、北条氏忠が入った。一方徳川氏は駿河から中道を経て甲府に入り、上野から信濃に侵入し南進してきた北条氏直に対抗するため高島城を攻めたものの、氏直の大軍に押され[[新府城]]まで撤退した。
相模から甲斐に侵攻した後北条氏は郡内を制圧し、御坂城を前線の城として修築し、北条氏忠が入った。一方徳川氏は駿河から中道を経て甲府に入り、上野から信濃に侵入し南進してきた北条氏直に対抗するため高島城を攻めたものの、氏直の大軍に押され[[新府城]]まで撤退した。
氏直は若神子城に入って本陣とし、家康は甲府から新府城に本陣を移して対峙した。氏忠は家康の背後を突くため御坂城から出撃したが、甲府を守備していた徳川軍に黒駒で敗れ撤退した。
黒駒合戦の後、後北条氏・徳川氏双方に大きな動きは無く、二ヶ月半ほどの対陣の末に和睦し、甲斐は徳川氏の領国となった。その後重要性を失った御坂城は廃城になったとされる。

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御坂城は城域の大部分を御坂峠が占めており、御坂山と黒岳をつなぐ山の稜線の最も低い所に鎌倉往還が通り、そこに置かれた主郭部を中心として両側に土塁と横堀が設けられ、長大な防御線がしかれている。
城のなかでは最も低所となっている主郭部から北と南の高所には土塁と空堀で囲まれた虎口状の曲輪があり、主郭部から南側にある数段の平坦地には土塁と空堀で区画された枡形虎口や角馬出が設けられた。
全体として山稜部から峠部に向かって2つの長大な竪堀が設けられており、特に徳川軍と対峙した方向である北側部分の西側斜面には横堀も設けられ、竪堀と複雑に組み合わさって堅固な守りとなっている。

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|所在地|山梨県笛吹市御坂町藤野木・富士河口湖町河口|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|山城|

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