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座喜味城 の変更点

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一の郭と二の郭の二層でできた簡素な構造のグスクであり、別称を「読谷山城」ともいう。折れ曲がるような張り出しも特徴のひとつで完成された曲線美がそこにある。
山田城(グスク)を拠点としていた護佐丸によって15世紀に築かれた。1416年、中山王尚巴志の北山攻略の戦いで武勲を立てた護佐丸は、一時期[[今帰仁城]]に留まり、その間に座喜味城の造営に着手したと伝わる。
拠点の山田城を取り壊してその石材を転用したとも言われているが、真偽のほどは分からない。当時の護佐丸は喜界島、与論島、沖永良部島などを配下に収めていて、グスク造営のためにこれらの初頭からも入夫を集めたようである。
短期間のうちに完成されたグスクを築くために相当な人手投入したであろうが、護佐丸が拠点としていたのはわずかな期間で、首里王宮の意向により1440年ごろには[[中城城]]へ移った。
護佐丸が去った後もゆかりの者が座喜味按司を名乗り、座喜味城はしっかりと機能していたという。中城城が城攻めにあった際も兵を牽いて駆けつけた。しかし、その時はすでに手遅れで城は落とされてしまう。

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|所在地|沖縄県中頭郡読谷村座喜味|
|現存状態|石垣、郭|
|復元|一部の石垣|
|城郭構造|山城|

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**城郭構造 [#geb1b881]
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美麗な曲線を描いて築かれた石垣は沖縄城郭特有の丸みを帯びた角で結ばれ、屛風を巡らせたようにも見える。戦争により日本軍の高射砲陣地や米軍のレーダー基地が置かれたため遺構の一部は破壊されたが、その後一部は復元している。
曲線の多い石積み構造の理由の最たるものとしては赤土の台地が関係している。弱い地盤のためその短所を補強する意味合いでの構造だったのだ。ただそれが高い防御機能を兼ね備える結果にもつながった。
外郭に聳え立つ13メートルの石垣による防御に合わせ、幅のある折れ曲がった張り出しは兵の足場になるため、侵入する敵に対して十分な迎撃性能を期待できた。
更に、この城の見どころは何と言っても門である。第一、第二の両門ともに布積みの石造拱門で、くさび石の嵌め込まれた構造は座喜味城独特のものであった。
整然とした松林を抜ければ忽然とまるで灰褐色の煉瓦を積んだような石垣が姿を現す。松林に向かって開かれた第一の門が正門だ。中をくぐると中庭のように広い空間にでる。
門の両脇が大きく張り出しているのは横手から敵を射掛けるための工夫であった。進んだ先に一の郭へ続く第二の門があるが、もう片方、左側にも道はあるが、先細りになっておりそのまま進むと袋小路に突き当たってしまう。
あたかも連絡通路のように構えているため、敵がうっかりここを通ると待ち構えた兵が一斉に攻撃を仕掛ける。巧妙に誘い込みが細工された縄張りであった。
無事、第二の門をくぐると一の郭(主郭)へと到達する。一の郭の北側から門口16.58メートル、奥行き14.94メートルの石組が発掘されており、この中に建物があったと推測される。
殿舎跡なのだが、瓦は確認されていないことから建物は杮葺か茅葺であっただろう。
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