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平島館 の変更点

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平島館(ひらしまやかた)は足利将軍家の庶流平島公方代々の居館である。
室町幕府の名門細川京兆家の内訌(永正の錯乱・両細川の乱)において、細川晴元は将軍足利義晴を手元におく細川高国に対抗するため、阿波守護家の庇護下で育った将軍義晴の弟(平島公方家の伝承では兄)足利義維を擁立した。
しかし、高国を京から追い払った晴元が将軍義晴と和解する一方、義維を後見していた三好元長が晴元と対立するようになると、天文元年(1532年)三好元長は堺で自刃、義維も自害しようとするも晴元に制止された。
その後義冬と名を変え、阿波守護細川持隆に迎えられ阿波に戻り、天文3年(1534年)に足利将軍家と縁の深い天龍寺の荘園平島荘に居館を構えた。これ以降義冬の流れは平島公方と呼ばれるようになった。
義綱はその後義冬と名を変え、阿波守護細川持隆に迎えられ阿波に戻り、天文3年(1534年)に足利将軍家と縁の深い天龍寺の荘園平島荘に居館を構えた。これ以降義冬の流れは平島公方と呼ばれるようになった。
//さすがに居館を構えたという一番大事な部分をメインパートに示さない理由はないでしょう

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義冬は三好実休が細川持隆を殺害した際にはこれに反発し、一旦は周防の大内家の元へ移ったが、三好長逸らに迎えられ平島に戻ったという。
三好長慶の死後、その勢力を受け継ぐことになった三好三人衆が将軍足利義輝を殺害するに至ると、新たな将軍を立てる必要に迫られた三人衆は平島公方に白羽の矢を立てた。
義冬は中風を得ていたため、その長男義親が義栄と改名し将軍に立てられることになるが、三好三人衆と松永久秀の対立の激化の影響で、将軍宣下も遅れ、京にも入ることができないなど、将軍の実体を伴っているとは到底言い難いものであった。
そうこうしているうちに足利義輝の弟義昭を擁した織田信長が京に進出、三好三人衆は対抗するも敗れ、義栄も彼らとともに四国へ落ちたのち病死、平島公方の将軍への夢は潰えた。
その後の阿波では三好家が没落し、長宗我部家の時代を経て、最終的に蜂須賀家が阿波領主となったが、蜂須賀家は領内に室町将軍家の後裔がいることを好ましく思わなかったのか、これまでの所領を奪われるなど足利家の子孫とは思えぬほどの冷遇を受けることとなった。
これは、足利義昭は秀吉の時代に1万石の大名(後継者なく1代で断絶)であり、古河公方の名跡を継ぐ喜連川藩主喜連川家は参勤交代や諸役が免除されるなど江戸幕府内で特殊な地位にあるなど、他の足利家子孫は貴種とされていたことと比較すると明白である。
この状況は代を経るにつれ改善していったものの、文化2年(1805年)足利義根は徳島藩を離れ京に移り、この時に平島館も破却されたとされる。
その後平島公方家は紀州徳川家などの援助を受け京に在したが、明治期に入るとそれもなくなり、また華族になることもできなかったため、義根の子義俊は京都近郊に帰農したという。

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平島館の跡地はその後農地になっていったものの、住所の字(居)としてそこにかつて館があったという歴史が伝わっていった。
現在では主館があったあたりに阿南市立阿波公方・民俗資料館が建設され、平島公方家にゆかりのある品々などが展示されている。
また、館が破却される際に退去費用の捻出を目的として売却された門や玄関など一部の遺構が各地に移築され、特に小松島市の地蔵寺に移築された玄関と書院は県指定文化財となっている。
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|所在地|徳島県阿南市那賀川町古津字居|
|現存状態|特になし(阿南市立阿波公方・民俗資料館)|
|城郭構造|居館|
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