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山口城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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長州藩毛利氏が、約260年間の長きに渡って連れ添った[[萩城]]に代わる新たな藩庁として築いた城。
幕末、長州藩は藩の方針を尊皇攘夷と定め、それまでの居城だった萩城は海沿いに築かれて外国艦からの砲撃に弱く、また長州藩領では北に偏っていたため、領内の中心に位置する山口の地に新たに城を築くことが決定された。
山口への移転は文久2年(1862年)から進められ、幕府には城ではなく「屋形」であると届け出たため、藩内では「山口屋形」や「山口政庁」と呼んだ。

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屋形として届け出た山口城だがその実態は紛れもなく城そのもので、かつて大内氏が[[大内氏館]]の詰城とした高嶺城の山麓に築かれ、山口城もまた高嶺城跡を詰城として利用した。
大砲による砲撃戦を想定して設計され、大砲の格好の的となる天守や櫓は築かれず、[[稜堡式城郭>四稜郭]]に似た八角形の縄張をしており、屈曲した水堀や石垣、土塁で囲まれる堂々たる構えだった。
山口城の築城に先立って長州藩江戸屋敷の縮小が行われており、また禁門の変で屋敷が没収されるとこれを解体して山口城に移築し、萩城の御殿もまた解体・移築された。
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山口城への移転は文久3年(1863年)7月に正式発表され、翌年10月に山口城が完成し長州藩主・毛利敬親の居城となった。
同年11月には第一次長州征伐が行われ敬親は幕府に降伏、その条件として山口城は一部が破壊され敬親は萩城へと戻った。
しかし慶応2年(1866年)には再び山口城に政庁が移され、敬親の本拠地として第二次長州征伐を戦っている。
以後も山口城は長州藩・山口県の中心として機能し、明治6年(1873年)の廃城令でも存城処分となり陸軍省が管轄したが、大蔵省の管轄となると廃城になった。

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|所在地|山口県山口市滝町|
|現存状態|表門、堀など|
|城郭構造|平城|

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